『推したちとどう生きるか』三宅香帆(書評)
【9月14日 記】 同じ著者の本を連続して読むというのは僕にはあまりないことなのだが、同じ時期に出版されたから仕方がない。すぐに両方いっぺんに買わなければ良いだけのことなのだが、すぐに買いたい著者なのである。
コンテンツにおける「父の不在」からコンテンツにおける「夫婦関係の描写の欠如」に着目し、そこから現代社会のありようを描いてみせた『「夫婦」不在社会』と比べると、この本は単なる分析から脱して、とても思想性に富んだものを感じさせる。
ここで書かれているのは、彼女がこれまでにも書いてきた「半身」とか「複層化」とかいうことにも通じるものであるが、おそらく彼女がネット上でいくつかの炎上(と言うか、はっきり言えば「心ない多数の人間に浴びせられた罵詈雑言」)を身を以て体験したこともあってのことだろうと思うが、この歪み始めた「推し」文化をどうやって正常化すべきかという視点が明確で、それが読み進むにつれてどんどん強くなってくるのをひしひしと感じた。
今回、著者は「推し」を分析するに当たって、江戸時代から始めている。こういう歴史的アプローチは、彼女のデビュー当時には多分あまり色濃くなかった手法で、僕はその辺りに(僭越ながら)彼女の成長を感じて嬉しくなったりもする。
そして、日本における「推し」の開始を近代日本の誕生期に絞り、歌手、野球、歌劇という3つの分野から説き起こしている。そこからの例示と解題は非常に深く、そして連綿と繋がっている。
歴史から始めて現代の描写に至ると、途中からそれは歴史ではなくなり、実体験となる。そして、僕のような、著者よりはるかに年長の読者にとっては、実は彼女よりもかなり早く、歴史的事実を自分の体験として読めるのである。
若い人が書物やネットから仕入れた歴史的事実と、年寄りが身を以て体験したものとでは、得てして食い違いが生じ、年寄りが違和感を覚えたりするものだが、この本においてはそういうところが全くなく、まさに真髄を押さえているなと感じて、ここにも共感と好感を覚えてしまった。
さて、彼女の分析をここで僕が要約しても良いのだが、終章まで読み進めばその必要はない。
この終章で彼女はまず「本書の概要をまとめて」いるのである。著者が最後にここまで丁寧な書き方をしている本はめったにない。
そこには、自分の思いをできるだけ正確に伝えたいという渇望を感じる。「どうやって正常化すべきかという視点が明確で、それが読み進むにつれてどんどん強くなってくるのをひしひしと感じた」と書いたが、それがここに来て最高潮に達するのである。
ファンダムという共同性の暴走を防ぐための2つの糸口として、彼女は「秘密を許す」ことと「他人と異なる語り口で語ろううとする」ことを挙げている。
自分と他人が違う意見であることがどうしても許せなくなるとき、共同性が暴走してしまう傾向がある
と書いている。
「こんなこと許せない」「こんなことあっていいはずがない」「これは間違っている」と思い込んだとき、自分のその規範から外れた他者を疎外したくなる。自分たちの抱く暗黙の規範から外れた他者を、正義のルールに反した他者であるようにみなしたくなる。
と書いている。
個人同士がお互いの規範を戦わせる場合は「喧嘩」と呼ばれるものですが、集団 vs. 個人になるとそれはただの「リンチ」になってしまう。
SNS はどうしても共同性を過激にしてしまう。だからこそ私たちは注意して、他者の規範に乗っ取られずに、個人の言葉を使うことを、意識するべきではないでしょうか。
と書いている。
そして、あとがきには
誰かや何かを好きになることが、そんなに残酷でいいはずがない。
という心の叫びが記されている。
「推し」の文化を担うひとりとしての三宅香帆が、「推し」の素晴らしい文化を守り抜くための処方箋と決意を語った、熱い熱い書物が本書なのである。
だけど私は、そのとき、タオルを回さない人が増えてほしい、と思っている。
という、熱い使命感に溢れた言葉が、ガツンッと胸に突き刺さる書物であった。


Comments