『イン・ザ・メガチャーチ』朝井リョウ(書評)
3人の人物の物語が章ごとに別々に(と言っても、そのうち2人は父と娘だが)展開され、その3つがいつどこでどんな風に繋がるのか、最初は予断を許さないのだが、最後には「ああ、そこでそう繋がるのか」という感じで、この辺りの展開はとても巧い。
僕は、彼の小説を原作とする映画は何本か観ているが、小説を読むのは『何者』に次いでこれが2作目だ。
『何者』はソーシャル・メディア(twitter)を、『イン・ザ・メガチャーチ』は推し活を扱った小説であり、そういう視点で言うと、彼は常に現代的な素材を扱い、実際それを得意とする現代的な作家である。
しかし、それにしても、この小説は、読みようによっては、かなり悲惨な物語である。
(今回は少しネタバレに踏み込んで書くので、知りたくない人はここで読むのをやめてください)
- 会社員生活と家庭生活の両方に、ある意味で失敗してしまった中年男が、推し活の罠に落ちてしまう話
- Z世代の女の子が、大学生活の違和感から推し活の沼に嵌り、親に嘘をついてまでアイドルに貢ぎ始める話
- 日常生活の憂さから逃れて推し活に精を出していた女性が、いつの間にか怪しげな陰謀論者に絡め取られて行く話
しかし、これらは必ずしも悲惨一色に塗りつぶされたストーリーではない。そんな悲惨な過程の中で、彼らが輝く瞬間がしっかりと描かれているから。
そして、そんな彼らの背景として、自殺するアイドルと、適応障害になるアイドルの姿も描かれる。
幸せって何なんだろう?と考えてしまう。
多分それは、他人にはどんなに悲惨に見えても人それぞれに至福の瞬間があって、そのことに人は随分と救われるはずだし、同じひとりの人にとっても、その時、その状況によって違うものが訪れるということなんだろうと思う。
そう、ここで描かれているのは「多様性」ではなく「多義性」なのだと思う。
もちろん著者は、それで良いとも、それで悪いとも言っていない。ただ、著者はここに、そういう事実を提示するだけのいろんな局面を用意している。
巧い作家である。感情や心理の動きを、そして、世代や経験や周囲の環境の違いによる差異を、きわめて巧みに捉えて精緻に描いているだけではなく、例えば下記のような表現──
- この角度の表情を、知っている。
- 夕陽が落ちるように、思う。
- 細長い容器の中で整列させられていたキンパがその断面を見せつけるようにパタンと倒れた。
- 「はい」俺の相槌が、国見の説明の句読点代わりになる。
- まるでキスをしたあとのような形で唇の動きが止まった。
こういう表現って、書けそうで書けない。
そして、語りすぎないところで、この小説は終わる。
「あ、ここで切ってしまうのか。僕だったらもう少し先まで描くところだが…」と思うようなところで切ってしまう。
そこで思ったのは、この小説のオープン・エンディングに対しても、「読者に対して解釈を投げ出しているみたいで無責任だ」などと言う読者がやはりいるんだろうか?ということだ。
そもそも「作者が言いたいたったひとつのこと」なんてものがあるはずはないが、でも、彼の中にはこういう多義性を描こうという気はあったはずだ。それをクローズド・エンディングにしてしまうと、多義性が一元性にすり替わってしまうではないか?
果たして彼らはそういう小説を読みたいのだろうか? ちょっと呆れてしまう。
僕はこの解釈の余地を楽しみたい。そこに余韻があり、感興があるのだから。



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