『本を読めなくなった人たち』稲田豊史(書評)
【3月30日 記】 僕は稲田豊史の前著『映画を早送りで観る人たち』を読んで相当なショックを受けた。だから、この本は何が何でも読まなければ、読みたい、と思った。
それは著者が稲田だからではなく、紛れもなく前著の延長上にある問題を扱っているからである。
この本は、本を読まなくなった人たちに話を聞き、出版に従事している人たちへの取材も加味して、本を読まない、読めない人たちの考え方や性向、そしてそれを引き起こしている世の中の激変ぶりをまとめたものである。
そして、彼らの傾向は「映画を早送りで観る」という行動と明らかに地続きであるところが、僕らからするととても怖い。
彼らはお金を払って本を買うことをしない。必要な情報はネットから取る。基本的に文章は無料だと思っている。文章は伝達効率が悪いと考えている。
だから、長い文章を読まないし、もはや読めなくなっている。その結果、長文読解能力が劇的に落ちている。
あとがきで稲田は、
怒り。それが本書執筆の原動力だった。
と書いている。しかし、その一方で、
この分断(本を読む人と読まない人の分断、筆者註)は知的優劣が可視化されたものではない。読書以外によって培われる別の知性も確実にあるからだ。
と書いていて、必ずしも怒りに任せて筆を執ったものではなく、極めてフェアな立場で書かれていることが分かる。
僕としては紙の本を読まない人が増えたって別に構わない。僕も読む本の9割方は電子書籍である。
しかし、長い文章を読めない人が増えていて、長いというだけで読むのを放棄し、代わりに要点を解説した YouTube動画で済ませ、あるいは AI に要約してもらった短文だけを読むのだと知ると、どうしても「この国の将来は大丈夫なのか?」という思いが吹き出してくる。
人々は検索をしなくなった。降ってくるものだけを受け入れる。接触時に能動性が求められるメディアほど嫌われる。
「うちのおじいちゃんはお金を払って新聞を取ってるけど、それはスマホが使えないから。使えたら、払う理由はないですよね」
というインタビュイーの発言には笑うしかないが、しかし、あながち的外れでもない気がする。そうか、僕はスマホが使えるようになったから新聞を取るのをやめたのか、とさえ思ってしまう。
彼らは実利的かつ必要な情報だけを求める。そして、「秒」で理解できることにしか関心を払わない。知らない単語が出てくると読むのをやめる。ネットで無料かつ簡単に手に入る情報以外は存在しないと同様に扱う。
この本はそんな例をたくさん紹介しているが、しかし、これは「最近の若者はまったく、もう」みたいなことを訴えてそれを嘆く本ではない(そしてこの傾向は決して若者に限ったものでもないのだ)。
時代の変化の分析は冷静であり却々シャープである。そして、図解も使って分かりやすい。
売る側の変化もしっかりと捉えている。宣伝はすでに不特定多数からの耳目を集めることではなく、狙い込んだお客に好意的な行動を起こさせることにシフトしているのである。
そして、こんな分析もある。
若者にとっての本やテレビは、現代人の多くにとっての古典芸能のような存在なのかもしれない。
おお、そこまで来てしまったか!
でも、僕にはそれは嘆くべきか嘆くべきでないかというような問題ではないように思える。
僕は別に本や書店の存在を絶対視してそれを死守しなければなどとは思わない。
この本でも引用されているが、宇野常寛は「『本』は『手段』であって『目的』じゃない」と言っている。その点には僕も同意する。しかし、その一方で、その手段の変化が世の中を大きく変えてしまっているのも確かである。
それを考えると、本を読まない彼らは多分、僕らの世代が死んだ後、僕らが暮らしてきた社会とは随分と異なる社会を作り上げて、僕らとは違う感性と価値観をもって他者と接する世の中を運営して行くのだろうと思う。
今の僕らの社会が原始人の社会や、江戸時代の社会とは大きくかけ離れていることを考えると、多分当たり前のことなのだろう。
この本を読んでいて、そんなことを考えてしまった。
そして、うだうだ書いてきたがひとつだけ確実なことがあって、仮に彼らがこの文章を見つけたとしても、決して読まないだろうということである(笑えない)


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