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Thursday, October 09, 2025

『熟柿』佐藤正午(書評)

【10月9日 記】 佐藤正午の小説を読んでいつも頭に浮かぶ(ので、いつも書評に書いている)のは、彼が読者を宙吊りにしたままどこか分からないところに引っ張って行く作家だということだ。

「宙吊り」と言われてどういう意味か分からないかもしれないが、僕が思い浮かべているのは英語の suspend という動詞である。

suspend の基本的な意味は「吊るす」であり、だからズボンつりのことを suspender と言うわけだが、「一時的に止める」「保留する」なんて意味もあって、それが宙吊りに通じるのだ。suspense という名詞はそこから派生している。

そう、佐藤正午の小説には謎が散りばめられている割にはあまり「ミステリ」っぽくはないが、しかし、間違いなく一息もつけない「サスペンス」なのである。

読者はこの話がどう転がるのか、主人公がどういう目に遭うのか、そんなことがよく分からないまま、まさに宙吊りにされて地面に足が届かないまま、著者の筆致に運ばれてしまう。いや、と言うよりも、著者の筆致に追いつこうとして、必死で先を読み漁ってしまうのである。

この小説は、妊娠中に逮捕され、刑務所内で男の子を産み、出所後当然のように夫に離婚を迫られ、「死んだ母親」として息子に会うことも許されなかった主人公・かおりが、その辛い思いを胸に抱きながら、そして、前科者に対する世間の冷たい風を受けながら、千葉から西へ西へと流れて行く物語になっている。

佐藤正午は日常生活におけるちょっとしたズレや違和感を描くのが巧い作家だ。そして、今回もそんなちょっとした違和感から小さな綻び、小事件、そして悲惨な事件へと繋げている。いつも通り、出だしから巧い。

ケチで親戚一同から疎んじられていた大伯母の晴子の葬儀から小説は始まる。みんな生前の彼女を偲ぶでもなく、好き勝手にどんちゃん騒ぎをしている。

庭に柿の木がある。大伯母がその腐りかけた柿の実に唇を当ててチュルチュル、ズルズル吸っていたというグロテスクな話も披露される。

いとこの慶太がもぎった柿の実でジャグリングを始めて拍手喝采を得るが、その一方で、「そんなことをしたら晴子伯母さんに呪われるぞ」とも言われる。

もう不吉なサスペンスが始まっている。

そんな中、かおりは泥酔している夫を車に乗せて帰路につくが、そこで人を轢いてしまう。

運転中に親友の鶴子から電話があり、「あたしが人殺しになっても電話に出てくれるかな」などと言われた直後に轢いてしまう。

いや、轢いたとはっきりとは書かれていない。あれはやっぱり人を轢いた衝撃だったのか?というところで文章は途切れる。

その辺りで、僕らはもうすでにかなり高い位置に宙吊りにされてしまっている。

そして、次の章は、もう栃木の刑務所を出所して、夜勤明けで煙草を吸っているかおりから始まる。

事故の顛末も、逮捕されるシーンも、裁判の描写もなければ、服役中の生活についても一切省かれている。この辺の時間の飛ばし方も巧い。

そういう過去を読者に詳しく伝えないまま、作家は主人公の現在の苦悩だけを描く。不安が煽られる。

息子が小学校に上がるときに、かおりはこっそりと入学式に紛れ込んで息子の姿を一目見ようとするのだが、見つかって大騒ぎの末に追い出される。パトカーも来た。逮捕されたときの記憶が甦る。

そこはなんとか難を逃れたが、それからかおりの放浪生活が始まる。

息子の同級生の咲と、その母親である久住呂百合(くじゅうろ・ゆり)のように気にかけてくれて世話をしてくれる人もいたし、優しい上司にもめぐり会った。親しくなった同僚も何人かいた。

しかしその一方で、彼女の弱みにつけこんでひどい目に遭わせる同僚もいた。そして、前科者だとバレるとすぐに仕事を追われて、僅かな親切に縋って仕事にありつける土地に引っ越すしかなくなる。

一度道を外れてしまうと諦めるしかないのかもしれないが、問題は前科がバレると馘になるということではなく、毎日毎日いつバレるかという不安を抱えて生きることなのだ。

読者はその不安を共有しながら読み進むこととなる。かおりは何年経っても息子の拓には会えない。それどころかどんどん遠ざかって行く。

僕がこの作家の真骨頂を感じたのは、かおりにとって一番大切な瞬間が訪れたときの記述である。

わたしの頭をよぎったのは小説『お登勢』に書かれていた言葉だ。

  お登勢は目を伏せて、爪先を縮めた。

この小説と、テレビ番組になった沢口靖子主演のドラマのことは、レストラン勤務時代の同僚・百崎さんや土居さんの発言として前に出ていた。

しかし、なんでこんな大事なときにこんなどうでも良い話を思い出すのか! 何の関係もない台詞が頭に浮かぶのか?──と読んだ瞬間は思うのだが、しかし、こういうことは往々にしてあるのである。

そして、佐藤正午は元から「往々にしてあること」を描く作家なのだ。この塩梅が絶妙なのである。そして、こうやって脇に逸れることによって却ってリアリティが高まるのである。

そう、例えばこの小説における鶴子の不倫 → 結婚 → W不倫といった恋の遍歴の話なんか本筋のストーリーには関係がない。しかし、こんな風に脇を肉付けすることによって全体のリアリティは構築されるのである。

若い読者の中にはこの『お登勢』の蒸し返しを「伏線を回収した」と言って喜ぶ人もいるのだろうが、僕はこれはそんなものではないと思う。ただ、記憶はそうやって変な形で繋がることがあるということを示しただけのことだ、というのが僕の感じ方である。

そして、小説が終わるほんの数ページ前に突然、佐藤正午がどういう意味を込めて「熟柿」というタイトルをつけたのかが示される。

実はこういうのは最近の若い層には全く受けないタイトルのつけ方であって、昨今では例えば「僕が異界に転生したら◯◯だった」みたいな、ストーリーを全部語っているタイトルが受ける、というか、そうでないタイトルだと先を読んでもらえないという風潮がある。

僕は最後まで読んでやっと繋がるというタイトルが大好きで、例えばこのブログや note に書く文章にも最初はそういうタイトルをつけていたのだが、最近では日和って結論を含んでしまっているタイトルをつけたりしている。で、自分ではそれがものすごい欲求不満になっている。

だから、そんな中、よくぞこんな最後まで読まないと解らないタイトルをつけてくれたと嬉しくなる。そして、これも「伏線回収」などとは程遠い手法だと思う。宙吊りにされているうちに、いつしかひとつのことと他のことが繋がったのである。心がじんわりと暖かくなる。

終わり方もオープン・エンディングで、だからこその深い深い余韻がある。僕らは突然宙吊りのロープが切れて地面に落ちたと思ったら、そこは余韻という名の深みになっているのである。

佐藤正午はそういう、誰にもちょっと真似のできない作家なのである。

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