優勝セールにまつわる疑問
【10月31日 記】 昨日福岡ダイエーホークスが阪神タイガースを破って日本シリーズ優勝したので、早速福岡のデパートでは優勝感謝セールが始まったというニュースをやっていた。
その一方で、大阪のデパート(これは間違いなく阪神百貨店だが)も「応援感謝セール」をやっているとのニュースも入ってきた。
なんや、どっちにしてもやるんやん、と思ったのだが、優勝感謝セールと(優勝できなかったけど)応援感謝セールとでは規模などが大きく違ってくるんだろうか、とふと気になってきた。
【10月31日 記】 昨日福岡ダイエーホークスが阪神タイガースを破って日本シリーズ優勝したので、早速福岡のデパートでは優勝感謝セールが始まったというニュースをやっていた。
その一方で、大阪のデパート(これは間違いなく阪神百貨店だが)も「応援感謝セール」をやっているとのニュースも入ってきた。
なんや、どっちにしてもやるんやん、と思ったのだが、優勝感謝セールと(優勝できなかったけど)応援感謝セールとでは規模などが大きく違ってくるんだろうか、とふと気になってきた。
【10月26日 記】 僕はこのブログに「果てしないトイレ談義シリーズ」というのを書いていて、トイレにまつわるおかしな話を収集しています。
で、先日、ある公衆便所でまた変な表記を発見してしまいました。それが右の写真です。
Accessible Facility って何だか変だと思いませんか? 一番下手糞な訳をすると「到達可能設備」、もうちょっとまともな訳をしても「使いやすい施設」って、それでこれが障碍のある人のためのトイレだって判ります?
── と意気込んで、一応念のため辞書を調べてみると、意外にもこの表現はこれで良いのですね。ちょっとびっくり。
永田琴という監督のことは全く知らなかったが、脚本が向井康介だったので俄然観る気になったのである。
しかし、いやあ、えらいものを観てしまった。えぐい。バイオレンス部分がえげつないのである。
もちろん向井康介が脚本を書いているので、バイオレンスのみの映画にはなっていない。
タクヤ(北村匠海)がマモル(林裕太)の頭を撫でようとしたらマモルが片手で遮って身構えるところとか、タクヤが梶谷(綾野剛)に目隠し外してくれませんかと頼むところとか、筋運びも台詞回しも、小道具の使い方も抜群にうまくて、やっぱり向井康介らしい、人間の深いところまでしっかり分け入っていて他の脚本家には書けない話に仕上がっている。
しかし、如何せん、バイオレンス部分がえぐいのである。
これが単に銃で撃ち殺したとか、刃物で刺し殺したとか、あるいは爆弾で何人も死んだとか、そういうのであれば僕らもフィクションだと思って流して観ることができるが、頼むから生きたままえげつないことをするのはやめてくれ、という感じ。
少なくとも僕は勘弁してほしい。そういうのが平気な人、好きな人にだけ見せてほしい。
【10月23日 記】 映画『おーい、応為』を観たら、どうしても原作となった杉浦日向子のこの漫画を読み返したくなって、古い作品とは言え、映画が公開されたタイミングだからきっと出ているだろうと思って探したら、ちくま文庫上下巻で手に入った。
上下合せて 30話あったが、読み直しても、僕が『漫画サンデー』の連載を読んだのがどこからどこまでだったのかさっぱり思い出せない。しかし、この画、このタッチ、そして何とも言えないこの筋運びはやはり今も鮮烈に印象に残っている。
まず、思ったのは、やはり葛飾応為ことお栄は、映画『おーい、応為』で描かれているほど、気の強い女という感じではなく、もっとぬぼーっとした感じである。
腹を立てて怒鳴ることもあるが、もうちょっと、傍から見ると何を考えているのか分からないような、ちょっとふわっとした女性でもある。
あれが大森立嗣の解釈であったのかもしれないし、長澤まさみ主演ということでああいう女性像を思いついたのかもしれないし、あるいは、映画はこの漫画と別の小説の両方を原作としているから、小説のほうの描き方がそうだったのかもしれない。
現に、この漫画の中には「応為」という画号は一切出てこない。
ま、いずれにしても、映画と小説と漫画が食い違っていても何の問題もない。
一方で、映画に出てきたのと同じエピソードもいくつかあった。
【10月21日 記】 一穂ミチは去年『砂嵐と星屑』を読んで魅了され、「次は長編を読んでみたい」と書いた。
今回手に取ったのは多分長編とまでは言えないだろう(Kindle本だと長さがうまく掴めない)。短編あるいは中編ぐらいの小説が2作収められている。
表題作の『恋とか愛とかやさしさなら』は女性カメラマンの新夏(にいか)を主人公とする話なのだが、出だしがいきなり
ファインダーを覗く時、いつもかすかな罪悪感を覚えた。
とあって、「え?どういう意味?」と思ってしまう。巧い導入だ。
新夏は、友だちの結婚式の写真撮影を請け負ったりはしているが、自分では自分のことを、父親の写真館を手伝ったり、一流カメラマンのアシスタントを務めたりするだけの半人前だと思っている。
新夏は、自分が人生のサイクルの岐路に差し掛かっているのを感じた。(中略)進級前の春休みみたいな気分。
などと、独特の表現をしてくる。
その新夏の婚約者の啓久(ひらく)が、ある日盗撮で捕まることで物語は動き出すのだが、彼女はこういう場面で多くの女性が考えそうなことを考えない。ありがちな反応を示さない。もちろん激しく動揺するし腹も立つのだが、
そもそも、許すとか許さないとか、新夏が決断する問題なのか。
と思い直したりもする。彼女のこの辺りの思慮の深さがこの物語のキモだと思う。
しかし、この思慮の深さが彼女を抜けられない泥沼に陥れてしまうのだ。
幸い事件は示談で収まり、啓久の両親は必死でそのまま2人を結婚させようとする。啓久も新夏に謝る一辺倒である。でも、新夏は割り切れない。
許さなければ、何らかの罰をわたしが啓久に与える? それが「別れる」ってこと? 答えの出ない悩みを壁打ちしているのが苦しい。
こういう描き方は非常に新しいと思った。新夏は言う:
「恋人」って、非正規雇用みたいだ。
苦悩の中に醒めた面もある。
わかり合う、ということを思う時、カップのアイスをスプーンで端からこそげていく光景を連想した。わからない部分をひたすら取り除いていけば、真ん中にろうそくみたいに残った自分がぐらぐら揺れている。
落ち込む中にかすかなユーモアもある。
【10月21日 記】 映画『ストロベリームーン 余命半年の恋』を観てきた。
僕は難病モノや「余命◯年」などという物語は嫌いだ。だから、普段ならこういうタイトルの映画は決して観ない。
でも、今回は監督が酒井麻衣で脚本が岡田惠和だと言うんだから仕方がない。観るしかない。
どちらも前から大好きな演出家と脚本家だが、この同じ組合せで今フジテレビで『小さい頃は、神様がいて』というドラマをやっていて、これがまたべらぼうに面白いのである。この新進監督とベテラン脚本家の相性の良さをひしひしと感じていまう。必然的にこの映画に対する期待も高まるというものだ。
おまけに主演は當真あみと齋藤潤という、先月までフジテレビで放送していた『ちはやふる -めぐり-』のコンビである。これも良かったなあ。
この映画には原作小説がある。ベストセラーだったらしい。
ストーリーは、余命半年を宣告された桜井萌(當真あみ)が、自分の誕生日に好きな人と一緒に見ると永遠に結ばれるという、6月の満月 「ストロベリームーン」を2人で見るために、高校の入学式の日に出会った佐藤日向(齋藤潤)にいきなり告白するというものだ。
こんな無理やり感溢れる設定と、違和感てんこ盛りの展開を、どうやってリアルなドラマに仕上げるかが岡田惠和と酒井麻衣の力量にかかってくると思うのだが、2人はこの映画を高校の入学式からは始めずに、成人して小学校の先生になった日向(杉野遥亮)と、彼の幼馴染で警察官になった麗(うらら、中条あやみ)の現在をまず描く。
そして、中学時代の、余命半年を宣告された日の萌へと飛ぶのだが、学校に行けず家でひとりぼっちだった萌の初めての親友が麗(池端杏慈)だったという展開になる。この麗を演じた池端杏慈が、もう信じられないくらい良かった。
【10月20日 記】 僕も年を取って初めて気づいたのだが、人間、年を取ると死を意識するようなるようだ。これは僕だけではなくて、結構いろんな人から同じような話を見聞きする。もちろん人によって濃淡はあるのだけれど。
で、僕は何事かを成し遂げた人ではないので、自分が死んだあと歴史的に残るようなものは何もない。僕と親しかった人がひとりもいなくなる、例えば 100年後とかには、僕の存在を匂わせるものは、有形無形を問わず、完全にこの世からなくなるだろう。
それはそれで構わない、と言うか、仕方ない、と言うか、いや、もっと何の感情もなく、ただそうだろうと思うのだが、ひとつだけ心残りなのは僕の音楽CD のコレクションである。
僕がネット上に書き散らしてきた何千編もの文章にも、僕が買い求めて読んできた書物にも、実はそれほどの執着はないのだけれど、僕が買い集めてきた CDコレクションには執着がある。
それは非常に僕らしいものであるし、唯一無二の存在だと思うのである。それが置き去りにされると、せっかく買い集めた労力が無に帰するような気がして、残念で仕方がないのである。
僕は葛飾北斎の浮世絵が好きだし、人物としても漫画や映画の素材として面白い存在だと思っている。
そして、北斎の娘であるお栄が単に父親のアシスタントを務めていただけでなく、彼女自身が超一流の(しかも、当時としては珍しい女性の)絵師であったことは杉浦日向子の漫画『百日紅』で読んで知っている(特にこの漫画での父と娘の関係は面白かった)。
そして、その漫画をプロダクションI.G がアニメ化した映画『百日紅』(原恵一監督、2015年)も観ている。
他に葛飾北斎を扱った映画としては『HOKUSAI』(橋本一監督、2021年)と『八犬伝』(曽利文彦監督、2024年)を観ている。
前者で北斎を演じたのは若い頃を柳楽優弥、年を取ってからは田中泯だった。お栄役はこの原作となった小説の作者であり、この映画の企画者でもあり、脚本も手掛けた河原れんだった。他には喜多川歌麿に玉木宏、東洲斎写楽に浦上晟周、柳亭種彦に永山瑛太、蔦屋重三郎に阿部寛が扮していた。
後者では滝沢馬琴に役所広司、葛飾北斎に内野聖陽、お栄は永瀬未留だった。
そして、大森立嗣監督のこの映画『おーい、応為』は、飯島虚心の小説『葛飾北斎伝』と杉浦日向子の『百日紅』を原作としている。
つまり、僕が『百日紅』を原作とする映画を観るのは3回目ということになるのだが、これは杉浦日向子がいきいきと描いたお栄という女性が如何に魅力的な女性像であったかを物語っている。
今回、葛飾応為ことお栄を演じるのは長澤まさみで、北斎こと鉄蔵に永瀬正敏、北斎の弟子の魚屋北渓こと初五郎に大谷亮平、同じく渓斎英泉こと善次郎に髙橋海人というキャスティングである。
こうやって並べると、歴代の北斎役は一癖も二癖もある大物俳優ばかりだが、お栄をトップ女優が演じるのは初めてと言って良いのではないか。
応為という画号は、何かというと北斎に「おーい」と呼びつけられたことに因んだものらしいが、それをこんなおやじギャグみたいなタイトルにしてしまうのは正直如何なものかという気はする(笑)
【10月15日 記】 国立映画アーカイブが「映画監督 森田芳光 Yoshimitsu Morita Retrospective」という企画をやっていて、今日はそのうちの『(本)噂のストリッパー』(1982年)と『ピンクカット 太く愛して深く愛して』(1983年)を観てきた。
この2本は森田芳光が『の・ようなもの』、『シブがき隊 ボーイズ&ガールズ』を撮った後、日活から招かれて撮った「にっかつロマンポルノ」である。外部からのゲストがロマンポルノの監督をしたのはこれが初めてではなかったかなと思う。
僕は『の・ようなもの』に衝撃を受けて、その後かなりの数の森田作品を観てきたのだが、この2本はにっかつロマンポルノということもあって見逃していた(その次の作品が『家族ゲーム』だ)。
たまたま僕の同年輩の友人が『ピンクカット』主演の寺島まゆみの大ファンで(なんと彼女が歌手として出した LPレコードまで買ったと言う)、この機会に観てみたいと言うので、僕は名前さえ記憶になかったが、なんであれ、よっしゃ行こうということになった。
で、今観てもあまり面白くないかもしれないと、あまり期待しないで観に行ったのだが、これが結構面白かった。特に2本目の『ピンクカット』は何度も笑い声を上げながら観て、我々2人とも大満足で会場から出てきた。
『噂のストリッパー』は昔のフィルムそのままで、解像度も低いし画面は傷だらけであったのに対して、『ピンクカット』のほうは、何をどう処理したのかは知らないがきれいにリマスターされていて見やすかったということもあるが、前者に対してその翌年に撮った後者の出来栄えの進歩に驚かされた。
やはり森田にとって初めてのポルノ、初めての商業映画、初めてのメジャー作品ということもあって、慣れない部分もあったのだろう。
【10月15日 記】 新海誠監督のオリジナルアニメ『秒速5センチメートル』を今さらながら観た。
奥山由之監督の実写版はこのアニメ版原作を言わば膨らませているわけだから、観る順番としてはどう考えてもアニメ版を先に観るべきである。しかし、実写版を先に観てしまったのだから仕方がない。
で、あの実写版を観たら何が何でもこの原作を観ないわけにはいかないではないか。
── というわけで遅まきながら Amazon Prime Video での鑑賞となった。
以下、主に実写版との比較の観点から、思ったことを箇条書き風に列挙してみる。ちなみに完全ネタバレになっているので、まだ両作をご覧になっていない方は後から読むか先に読むか、よーく考えてからにしてほしい。
◇
【10月14日 記】 ネット上に何か文章を物するとなると、自分が書いていることに間違いはないか、思い込みはないか等々を、一応アップロードする前に軽く確かめてみることが多いのですが、昨日テレビ番組の録画のことについて書いたときにいろいろ調べていて初めて知ったことがあります。
それは「ムーブ・バック」です。
なんと一度 Blu-ray にムーブしたコンテンツを再び HDレコーダに戻すことができるんですってね?
ふーん、今夜はブギー・バックならぬ、今夜はムーブ・バックですか。
これって、皆さん、大抵の方はご存じのことなんですか? もはや常識なんでしょうか?
いつからそんなことができるようになったんですか? 僕は全く知りませんでした。
【10月13日 記】 ミステリアスな事態が起きた。
僕はテレビ受像機に Blu-ray/HDレコーダと外付けHDドライブを繋いで、番組ごとにそのどちらか一方で録画をしている。
何故そんな面倒なことをやっているかと言えば、WOWOW を契約視聴しているからだ。
以前はテレビ本体と Blu-ray/HDレコーダの両方の B-CAS(当時)を登録していたのだが、そうすると当然2台分、倍の料金がかかる(実際には2台目は割引があるので倍にはならないが)。
しかし、仕事を辞めてプー太郎になったので、1台キャンセルして、今はテレビの A-CAS だけを登録している。
何故テレビ側を登録したかと言えば、Blu-ray/HDレコーダのほうを登録すると、WOWOW を観るときにいちいち Blu-ray/HDレコーダの電源を入れて切り替えなければならないので、たいへん面倒くさい。テレビのリモコンでチャンネルをザッピングしても WOWOW が映らないからだ。
しかし、そうすることによって必然的に WOWOW は(テレビ側のチューナを使って録画している)外付けHDドライブでしか録画できなくなるのである。
ならば、Blu-ray/HDレコーダの A-CAS を登録して、普段から全番組を Blu-ray/HDレコーダで観るようにすれば良いではないかと言われるかもしれないが、それは嫌なのである。
テレビをライブ視聴するために2つの機器の電源を入れるというのは耐えられない。
ならば、全ての番組を外付けHDドライブに録画すれば良いではないかと言われるかもしれないが、それも嫌である。
何故なら録画したものをディスクに「ムーブ」あるいは「ダビング」することが時々あるのだが、外付けHDドライブではそれができないのである。
でも、そうすると現状では WOWOW から録画したものをディスクにムーブ/ダビングできないのではないかと言われると、それはその通りである。その点については諦めている。
【10月10日 記】 実写版の映画『秒速5センチメートル』を観た。
僕は新海誠のファンだが、そんなに古くからのファンではないし、大体において新作志向なので、彼の『秒速5センチメートル』は(何度か観てみようかなとは思いながら結局は)観ていない。
でも、この映画の予告編で新海誠が「最後には自分でも驚いたことに、泣きながら観ていました」みたいなことを言っていることを知って、これは観なければ!と思ったのである。
しかし、この映画を最初に観ようと思ったのは監督が奥山由之だと知った時だった。彼の映画デビュー作で自主制作だった『アット・ザ・ベンチ』 の作りの面白さに魅了されてしまったからだ。
人気の少ない公園のベンチだけが舞台の、言わば一場もののコメディだったのだが、その縦横無尽なカメラワークとめちゃくちゃリアルな台詞回しがべらぼうに面白かった。
そして、その時すでに次の作品は『秒速5センチメートル』と発表されていて、とても興味が湧き、これは観ようと思った。
そこに、前述の新海誠のコメントが被ってきたのである。これは何が何でも見逃すわけに行かないと思った。
で、観てみると、原作が良いのか監督が良いのか知らないが、いや多分両方だろう、素晴らしい映画だった。
古いフィルムみたいに加工したざらっとした風合いの画面に切り取られた構図が、どれもこれもとても美しい。
いや、構図だけでなくフレームの中にあるすべてのものが、人も建物も、月も雲も桜の木も、プラネタリウムも雪景色も、一つひとつが見事に美しいのだが、とりわけその位置取りが秀逸なのである。
カメラマンは『百花』や『青春18×2 君へと続く道』、そして奥山監督の『アット・ザ・ベンチ』も担当していた今村圭佑だ。
この映画ではそんな美しい画をバックに、貴樹(上田悠斗〜青木柚〜松村北斗)と明里(白山乃愛〜高畑充希)の小学生時代から 30歳までが描かれるのだが、この一人ひとりが、これまた観ていて固唾をのむほどの素晴らしい演技をしている。
そして、出てくる女優たち(濃淡はあるが、みんな貴樹の人生に何かしら絡んだ女性たちだ)が各人各様に魅力に溢れているのだ。
【10月9日 記】 佐藤正午の小説を読んでいつも頭に浮かぶ(ので、いつも書評に書いている)のは、彼が読者を宙吊りにしたままどこか分からないところに引っ張って行く作家だということだ。
「宙吊り」と言われてどういう意味か分からないかもしれないが、僕が思い浮かべているのは英語の suspend という動詞である。
suspend の基本的な意味は「吊るす」であり、だからズボンつりのことを suspender と言うわけだが、「一時的に止める」「保留する」なんて意味もあって、それが宙吊りに通じるのだ。suspense という名詞はそこから派生している。
そう、佐藤正午の小説には謎が散りばめられている割にはあまり「ミステリ」っぽくはないが、しかし、間違いなく一息もつけない「サスペンス」なのである。
読者はこの話がどう転がるのか、主人公がどういう目に遭うのか、そんなことがよく分からないまま、まさに宙吊りにされて地面に足が届かないまま、著者の筆致に運ばれてしまう。いや、と言うよりも、著者の筆致に追いつこうとして、必死で先を読み漁ってしまうのである。
この小説は、妊娠中に逮捕され、刑務所内で男の子を産み、出所後当然のように夫に離婚を迫られ、「死んだ母親」として息子に会うことも許されなかった主人公・かおりが、その辛い思いを胸に抱きながら、そして、前科者に対する世間の冷たい風を受けながら、千葉から西へ西へと流れて行く物語になっている。
佐藤正午は日常生活におけるちょっとしたズレや違和感を描くのが巧い作家だ。そして、今回もそんなちょっとした違和感から小さな綻び、小事件、そして悲惨な事件へと繋げている。いつも通り、出だしから巧い。
◇
ケチで親戚一同から疎んじられていた大伯母の晴子の葬儀から小説は始まる。みんな生前の彼女を偲ぶでもなく、好き勝手にどんちゃん騒ぎをしている。
庭に柿の木がある。大伯母がその腐りかけた柿の実に唇を当ててチュルチュル、ズルズル吸っていたというグロテスクな話も披露される。
いとこの慶太がもぎった柿の実でジャグリングを始めて拍手喝采を得るが、その一方で、「そんなことをしたら晴子伯母さんに呪われるぞ」とも言われる。
もう不吉なサスペンスが始まっている。
そんな中、かおりは泥酔している夫を車に乗せて帰路につくが、そこで人を轢いてしまう。
運転中に親友の鶴子から電話があり、「あたしが人殺しになっても電話に出てくれるかな」などと言われた直後に轢いてしまう。
いや、轢いたとはっきりとは書かれていない。あれはやっぱり人を轢いた衝撃だったのか?というところで文章は途切れる。
その辺りで、僕らはもうすでにかなり高い位置に宙吊りにされてしまっている。
そして、次の章は、もう栃木の刑務所を出所して、夜勤明けで煙草を吸っているかおりから始まる。
事故の顛末も、逮捕されるシーンも、裁判の描写もなければ、服役中の生活についても一切省かれている。この辺の時間の飛ばし方も巧い。
そういう過去を読者に詳しく伝えないまま、作家は主人公の現在の苦悩だけを描く。不安が煽られる。
【10月7日 記】 最近「プラスティック」という言葉(あるいは「プラスチック」、大阪のおっちゃん・おばちゃんたちは「プラッチック」などとも言ってました)の持つイメージが変わってきたと思うのです。
きっと若い人たちはそんなことないんだろうと思いますが、僕らが子供だった頃は、プラスティックと言えばもっぱら硬いものでしたから。
多分、当時の日本にはまだ柔らかいプラスティック製品があまりなかったんだろうと思います。
当時の僕らにとって典型的なプラスティック製品といえば、それはプラモデルでした。
はい、硬いプラスティック。そして、透明ではなく、色がついていました。
それから各種おもちゃ関係。グリコのおまけもそうでしたし、後の時代にはプラレールなどという大ヒット商品も出てきました。
女の子たちの人形も、僕らの幼少期にはセルロイド(これもプラスティックの一種なのですが)だったのが、次第にセルロイドよりも割れにくいプラスティックに変わって行き、今のフィギュアにたどり着いたのだと思います。
あとは何かな、弁当箱かな。筆箱もあったかな。
いずれにしても、それらは全て(でなかったとしたら大抵)硬めの素材でした。
じゃあ、柔らかいものは何と言っていたかと言えば、それは「ビニール」です。典型的なのは「ビニール袋」。
ところが、これは大人になってからのことですが、ビニール袋のことを英語では a plastic bag と言うのだと知って大変驚きました。え? あんな柔らかくて透明のものを「プラスティック」って言うのか!って感じ。
ちなみに、東京の名の通ったホテルのフロントで、外国人に Do you have a plastic bag?(ビニール袋ないですか)と訊かれて、意味がわからず何度も聞き返しているホテルマンを見かけたことがあります。
そして、「ビニール傘」もまた a plastic umbrella です。
本木克英監督の作品は何本か観ていて、面白いものもあったが特別ファンだというわけでもない。今回観ようと思ったのは脚本が林民夫だったからだ。派手さはないけどとても巧い脚本家だと思う。
横溝正史ミステリ&ホラー大賞を受賞した原浩の同名小説が今作の原作である。
映画の冒頭は高い木の上から撮ったようなロング・ショット。
男女の2ショットだが、誰なのか識別はできず、そこからカメラが寄って行くでもなく、大半は木の葉に隠れていて、観客に見せる画としてはあまり考えられないオープニングである。構図に変な緊張感がある。
撮影は藤澤順一である。全編にこの人の技が活きていると思った。
さて、2ショットの男女は信州・松本で暮らす大学助教の久喜雄司(水上恒司)と夕里子(山下美月)の夫妻である。そこに警官がやってきて、3人で検分しているのは久喜家代々の墓の墓石である。
墓石に彫られていた、雄司の祖父の兄である貞市の名前と没年を記した1行が荒っぽく削り取られているのであった。
そして、彼らを遠くから見つめている白いワンピースの少女。気づいているのは雄司だけだ。
そんな変なことが起きるのは日記が見つかったことと関係していると夕里子は言う。
日記とは南方で戦士した貞市の日記で、現地でたまたまそれを預かったジャーナリストの与沢(森田望智)とカメラマンの玄田(カトウシンスケ)がそれを届けに来た。
日記の前半は従軍日誌だが、戦地で取り残された貞市が後半に延々と書き綴ったのはジャングルに生息する火喰い鳥を食べたいという異常な執着心だった。
そして、与沢らがそれを届けにきたときに、突然玄田がスイカにかじりつきながら「久喜貞市は生きている」と口走ったり、夕里子の弟の亮(豊田裕大)が藪から棒に手帳を奪って「ヒクイドリヲクウ ビミナリ」と書き始めるなど、不可解な展開が続く。
戦争の生き残りで貞市の戦友だった老人がガバっと起きて、ドアップで「火喰い鳥!」と叫ぶのも怖かった。
【10月4日 記】 3か月ぶりのプレイログ披露。今回も5曲。
【10月2日 記】 どういうきっかけでこの本を選んだのかは憶えていないのだが、ものすごく評判になっていた『同志少女よ、敵を撃て』を、迷った挙げ句結局読む気にならなかった記憶はある。多分何かでこの本のことを知って、こちらのほうが自分には向いていそうだと判断したのだろう。
読み進むうちにまず思ったのは、この作家はよくこれだけいろんなことを知っているなあ、ということだった。
自動車の期間工、中央アフリカの民兵組織、ファンド・グループ、サッカー、高次脳機能障害、反社会的勢力…。
もちろん全部最初から知っていたわけではなくて、いろいろ調べたのだろうけれど、一つの小説の中によくもこれだけ多種多様の情報を詰め込もうとしたものだ。
で、モテない期間工の話があって、中央アフリカの紛争の話があって、日本の一流企業の話があって、これがどう繋がるのかが分からない。そろそろ繋がってくるころかと思うと、また不動産業に従事する新たな人物が登場し、この先一体どうするの?と思っていたら、その辺から話はどんどん繋がっていく。
【10月1日 記】9月22日に書いた記事では「年内には多分終わるだろう」と書いたのだが、意外に早く全修正作業が終わってしまった。
やっぱり自分のブログがきれいになって行くのが嬉しいから、「ま、今日はここまでにしておこうか」ではなく「よし、あと半年分チェックしてから寝よう」みたいな気分になって、また一歩また一歩と作業が進むのである。
いや、多分、いくつか取りこぼしはあるだろう。でも、まあ、こんなとこで良いんじゃないかなと思っている。
そもそも大して読まれているブログでもないし、古い記事はなおさら読まれないだろうから、デッド・リンクや、おかしな表示、あるいは僕が勝手に改変した HTML のままの記事などがもし残っていたとしたら、それを見つけたときにその都度書き換えれば良いと思っている。
なんであれ、死んでいたリンクが大量に復活して、とても気持ちが良い。
リンクというものはいずれ切れたり死んだりするものだから、多分今が瞬間的なピークなんだろうけれど、それでも良いではないか。
とても気持ちが良いのである。
Recent Comments