『4321』ポール・オースター(書評)
【7月6日 記】 電子書籍の困ったところは一見してその本の分量が分からないことである。本屋で紙の本を手に取れば、その分厚さと質量、そして活字の大きさや行間の広さ、そして改行が多いのか少ないのかというようなところから大体の分量は感覚的に掴める。
しかし、電子書籍にはそもそもページ数というものがない。フォントの大きさやレイアウトは読者がカスタマイズできるので、ページ数を表示する意味がない。そのため「何ページ読んだ」「あと何ページぐらい残っている」という感覚が全く掴めないのである。
ただ、全体の何%読み進んだのかという表示は出る。それだけが頼りである。
僕はいつもは Kindle を開くのは電車に乗っている間だけなのだが、この小説をそういう読み方で読んでいると1日に1% 行くか行かないかだった。
それで、一体どのくらいの分厚い本なんだ?と本屋に行って見つけてみると、これがやたら分厚い。ページ数としてはほぼ 900ページ。しかも、段組である。
そこで初めて、こんな読み方をしていると読み終わるのに1年かかると分かって、途中からは家にいるときも読むようになった。それでも結局3か月近くもかかってしまった。長い長い小説である。
で、読み始めると、これがかなり混乱する内容だ。
アーチー・ファーガソンというユダヤ系アメリカ人の一生を描いた小説なのだが、章が改まるたびになんだか分からなくなる。
まず、時代が戻ったりする。それだけではなく、前の章では書かれていなかったエピソードや事件や人間関係が描かれている。次の章ではまた何年も時代が進んでいたりして、まるで前の章と関係ないみたいにストーリーが展開する。
読み進めば読み進むほど、なんか前に書いてあったこととうまく辻褄が合わなくなってくる。しかし、読み進んでしまうと、もうどの部分とどう辻褄が合わないのかさえ分からなくなる。で、全然バラバラかと言えばそうではなく、前に書いてあったこととごく自然に繋がっているところもある。
(この先、ちょっとネタバレを書いています。僕はこのことを読む前に知っていたかったけれど、何も知らずに読みたいという人もいるでしょう。読むか読まないかは各人の判断に任せます)
ストーリーとしては膨大な小説である。ひとりの人間の生涯が描かれている。オースターって今までもこんな風に丸々一生を語る作家だったっけ?(たくさん読んできたけれど思い出せない)。
僕はこの書きっぷりにむしろジョン・アーヴィングを思い出した。そう、まるでジョン・アーヴィングみたいに過酷な人生を描き切っているのである。
事故によって体の一部を欠損してしまう辺りもまるでアーヴィングである。
そして、もう一つ思ったのは、オースターってこんなにセックスを描く作家だったっけ?ということ(たくさん読んできたけれど思い出せない)。しかも、夫婦や異性の恋人とのセックスだけではなく、ホモセクシャルの行為も、娼婦との行為も結構詳細に描かれている。
あまり憶えていないくせにこんなことを書くのもアレだが、なんか今までのオースターとはかなり違う気がする。
そして、何よりも特徴的なのは、ファーガソンの一生を描くにあたって、主に 1960年代のアメリカの政治や社会で起きた事件やその時どきの文化をふんだんに取り入れて、まさにアメリカ史を描くことによって、現在のアメリカ合衆国のあり方を総括しようとしているような思いがはっきりと読み取れることである。
長い小説であることも理由のひとつだが、この小説がオースターの「集大成である」と言われる理由はその辺りにあるのだと思う。
で、話を戻すと、僕はもうそれぞれの章の繋がりがどうなっているのか訳も分からず読み進んでいたのであるが、割合最初の方にあったこの記述に「あ、そうなのか」と、なんとなく少しだけ分かったような気がした。それはこんな記述だ:
誰かの人生の物語を、ひとつにつながったストーリーとして語るのではなく、単にあちこちバラバラな瞬間に飛び込んでいって、一個の行動、思考、衝動を吟味し、また別の瞬間に飛び移る。
これは主人公ファーガソンが自作の小説の構想を語っている部分で、この『4321』という小説もまさにこの構想に沿って書かれているのだと、それだけは理解した。
しかし、依然としてそれぞれの章の繋がりが僕にはさっぱり分からなかった。
頭上を過ぎていく雲を眺めながら、世界は現実なのか、それとも彼の精神の投影に過ぎないのかと自問し
という小説の中の記述と全く同じ思いで僕はとにかく先へと読み進んだ。
僕はあの、物語がぐんぐん進んでいく感じがいいと思うんです。
確かに僕もそう思った。そういう風に小説内の記述と読者の思いがシンクロする部分があるのは確かだ。
小説のほぼ最後のパートになってやっとこんな記述が出てくる:
一人の若者が突如三人の若者に分裂し、三人とも同一人物なのだが名前はそれぞれ異なっている。
え? そういうこと? でも、そういう設定とも微妙に辻褄が合わない。
そのあとにはこんな記述が:
自分自身の別バージョンを三つ捏造して、自分の物語と並行して語るのだ
ええ? そういうこと? そんなこと、こんな終盤になってから種明かししないでよ。
最後まで読んで、訳者・柴田元幸のあとがきを読むと、柴田はこんな風に書いていた:
この本ほどあとがきが書きにくい本もそうザラにない。この本はまさに、「だいたいどんな本か」を、読む人一人ひとりが1ページずつ読み進むなかで発見してほしい本だからだ。
結局僕は最後までそれを発見できなかった。と言うか、それは却々難しいんじゃないか? それは最初に言ってもらわないと無理なんじゃないか?
しかし、それが分かるとそれが分かった上でもう一度読み直したくなる。しかし、また2~3か月かかるかと思うとそれもしんどい。
まあ、でも、そうか、そういうことかと分かっただけでも良かった。結局そういう形でしか、オースターはアメリカの近現代史を描きようがなかったのである。── 僕はそう感じた。
なんかとんでもない構造の大著ではないか。
オースターはこの小説の後に出した小説を最後に死んでしまった。ああ、もうあと1作しか読めないのか!という思いが強い。
うん、いつかもう一度一から読み直してみようかな。少なくともそれは僕らが歴史を捉え直す作業になることだけは間違いがない。


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