あてなき随想:麻生発言
【5月8日追記】 昨日麻生総理大臣が「私は43歳で結婚してちゃんと子供が2人いたから最低限の義務は果たした」云々と発言し、直後に慌てて「義務との言葉は不適切だった」と撤回した。
ウチも子なし夫婦である。結婚してから何年間かはよくこんな風な心ないことを言われたものだ。
「子供はまだか?何やってるんだ?」とか「子供を持ってこそ一人前だ」とか・・・。
(その辺の顛末はHPのこの記事に書いた)
言ってるほうの人間に「ひょっとするとこの夫婦は辛い目をして不妊治療を受けているのかもしれない」とか「自分たちとは違う価値観で生きている夫婦なのかもしれない」というような想像力が働かないのである。いつもげっそりしたものである。
だからこそ、僕はこの麻生発言に怒っても良いはずなのだが、今回は何故だか麻生総理がこんな風に慌てなければならない今の日本の状況のほうが情けなく思えた。
むしろ普段からあれだけ不用意な発言が多い麻生総理がよくまあ直後に気づいたものだと感心するくらいである。
別に麻生首相に同情する訳ではない。
政治家というのは言葉を商売道具にする職業の最たる例である。だから言葉で失敗したら責められて当然である。しかし、最近はそれがすぐに所謂「バッシング」になってしまうではないか。それがなんだか少し哀しいのである。
麻生首相は別に責められることを恐れたのではなかろう。バッシングを恐れたのである。
一方、心ない発言に傷つけられてきた側から発言すると、僕らは確かにそういう発言に不愉快な思いをしてきた。しかし、そんなもんへっちゃらなのである。
「早く子供を作れ」などと言われて適当に受け流すか、あからさまに無視して見せるか、あるいは正面から反駁するか、それはその時の相手と場合によって違う。が、ともかくなんとかやり過ごしてきたのである。
そんなことでは傷つかないというのはちょっと違う。傷ついたり不愉快に思ったりはしたのは確かなのだが、その傷なり怒りなりを survive した、というのが正しい表現だ。日本語にはこの survive のようにぴったり来る表現(つまり、目的語を取る他動詞)はない。
子供ができる/できないの件だけではない。僕らは小さい頃からそういう心ない発言を浴びるがごとく受けてきた。
そう、一番ひどかったのは高校時代、こちら側には思い当たる節が全くないのに、学校のプールの横の通路ですれ違ったクラスメイトにいきなり「お前なんか死ね」と言われたことがある。
そういうことにいちいち憤ったり落ち込んだりしたのも事実である。そして、多分、自分では気づいていないのだろうけれど、逆に僕らも周りの誰彼に対して悪意のある/ないに拘わらず心ない、ひどい「ものの言いよう」をしてきたはずである。
だから、と言う訳でもないのだが、僕らはそういうひどい言葉をぶつけられても黙って耐えてきた。
「赦す」というのとはちょっと違う。「なにくそっ!」と心中で叫びながら、「いつしか復讐してやる」との怨念に燃え上がりながら、それでも「あ、言ったな。それは差別発言ではないか!?」みたいなロジックは使わず、仲間に相談して皆で寄ってたかって責める形にも持ち込まず、ただ独りで耐えた。
いや、それも大げさかもしれない。そんな言葉なんて大したことないのである。相手に悪意があったにせよなかったにせよ、どっちにしても超えて行けるのである。僕らにはそのぐらいの強さはあった。今はちょっと弱くなっていやしないか?
今回の麻生発言は間違いである。だが、それをバッシングしても仕方がないとも思うのである。僕個人に対して発せられた言葉ではないから糾弾しないという側面もある。
「ふんっ、下衆野郎め」とは思う。だけど、それを「総理大臣としての見識が問われる」という言い方で責めようとは思わない。と言うか、皆で寄ってたかって責めようとは思わない。
すっきりと割り切れない難しい問題ではある。だが、近年の日本は幾分良くない傾向に振れているような気がするのである。すぐにバッシング体制ができあがってしまうこともまた問題であると感じるのである。
最初の子作りの話から少し離れてしまったが、皆さんはどうお考えだろうか?


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