いじめられている君へ-2
【12月22日特記】 もう毎日ではなくなったかもしれないし1面の記事でもなくなったようだが、朝日新聞の「いじめられている君へ」「いじめている君へ」というコラムがずっと続いている。毎回いろんな人がいろんなことを書いているが、中には随分間抜けなことを書いている人もいる。「何を説得力のないことを書いているのか」と思う文章もある。いや、それは僕がそう感じるだけで、多分同じ文章を読んで勇気づけられたり何か大事なことに気づいたりする人もいるんだろう。人の感じ方ってそんなもんだ。
いじめられたりいじめたりしている当事者の小中高生が読んでも多分同じで、なるほどと思うものもあれば反発を覚えるものもあるだろう。ただ、これらの文章の書き手に共通していることは、みんな真剣に当事者たちのことを考えて、彼らのためになりたいという思いに突き動かされて書いているということだ。そこにはある種のパワーを感じずにいられない。
実は僕も高校時代に同級生から突然「お前なんか死ね」と言われたことがある。これは継続的に行われたわけではないので「いじめ」という範疇には含まれないのかもしれないが、いずれにしても深く傷ついたことには変わりがない。何故そんなことを言われなければならないのかさえ解らなかった。何の心当たりもなかった。ただ、そこにあるのはどす黒くとぐろを巻いた悪意の塊であった。
僕はこの傷からいまだに抜け出せないでいる。だから、高校の同窓会があっても、僕にその悪意を投げつけた奴が出席するのであれば僕は絶対に出席したくない。会いたくないし、喋りたくないし、顔も見たくないし、名前を思い出すのさえ嫌だ。そういう風に逃げ回る生き方が正しい生き方かどうかはともかくとして、大人になるとそういう生き方だってちゃんと通用するのである。
一方で逆に、お互いに激しい憎悪を燃やして醜い言い争いをしたにもかかわらず、お互いに胸のうちを吐露してしまうと後にかえって仲良くなってしまった例もある。
不思議なもんだ、と我ながら思う。あの時あれほど激しい嫌悪感を感じていたのに、いい加減なもんだ、と我ながら思う。ならば、僕に「死ね」と言った奴とも徹底的に語り合ってみれば良いようなものだが、それだけはする気がない。勝手なもんだ、と我ながら思う。
でも、1つの原則が全てに当てはまるということはないのだ。だから人はその時その時に自らの感覚で取捨選択している。その判断が正しいかどうかなんて判ったもんじゃない。先のことは解らないのだ。時間が経てば変わってしまうことだってたくさんある。僕のこの考え方だって知らないうちに変わっているかもしれない。
だから僕がいじめられたりいじめたりしている当事者の小中高生に何かを言えるとすれば、それは君たちが今感じていることだってとてもいい加減なもんだ、ということである。だから、もうちょっと先を見てみようよ、ということである。
「死んでやる」と思っている君へ:
死んでしまうと人生の終わりだから、その先が見極められないよ。
「殺してやろうか」と思っている君へ:
殺すことは重大な犯罪行為だ。それは自分の人生の終わりではないけれども、まず他人の人生を勝手に終わらせてしまうし、君のその後の人生の中でたくさんの大きな要素を終わらせてしまうのも確かだ。やはり、その先がちゃんと見極められない。
大人の言うことはいつも正しいわけではない。同じように君らの考えることも間違っている可能性が高い。だから先を見極めるのである。
先を見極めるために何をすべきなのか、そのことを自分自身で判断してほしい。もちろん、そのためにひたすら逃げるというのもアリだと僕は思っている。
君がそれをアリだと考えるかどうかは知らない。それは君が決めることだ。ただ、僕としてはゆっくりと先を見極めてほしいと思っている。


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