Monday, May 13, 2019

主張する数字

【5月13日 記】 買い物をしたら代金が 2,019円だった。おう、これは令和元年、と言うか、今年ではないか、と思ってしまう。これが 2,020円であったなら東京オリンピックを連想したかもしれない。

しかし、例えば 1980年代には 2020 という数字を見ても、それを年号だと思ったことはなかった。それまでに自分は死んでいるだろうと思っていたわけでもないが、その頃の自分を想像できないくらいの先の話で、だから年号だとは感じなかった。

これも今日まで生きてきた結果なんだなと思う。

我々は生きて行く中でどんどん数字に意味を見出してしまう。例えば 513 という数字を見ると、それは僕が関西で最後の 17年間を過ごしたマンションの号数だ。

あるいは 5月13日を出す人もいるだろう。それはたまたま今この文章を書いている今日の日付だが、僕にとっては 5/13 は特に記憶に残っている日ではないので、513 という数字は直接日付とは結びつかない。

でも3桁の数字や 1231以下の4桁の数字を月日と結びつけるのはよくあることだ。それは誰かの誕生日であったり何かの記念日であったりする。

いや、そんな個人的なものばかりではなく、例えば 1.17 なら阪神淡路大震災だ。9.11 なら NY の同時多発テロだ。そして、3.11 なら東日本大震災だ。

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Tuesday, April 30, 2019

夢の中

【4月30日 記】 夢の中でこれは夢だと分かっている、というような話をよく聞くが、僕は昨日までそんな経験が全くなく、果たしてそんなことってあるんだろうかと俄に信じられなかった。

何かをしている(あるいは、場合によっては、何かに追い詰められている)自分がいて、それを客観視している自分がいるという体験はしょっちゅうしている。でも、それは起きているときだ。眠っているときにどうして自分が夢の中にいると分かるんだろう、とずっと不思議に思ってきた。

ところが今朝見た夢でその謎が解けた。生まれて初めて僕も夢の中でこれが夢だと分かったのである。それは僕が想像していたものとは違っていた。

長い長い夢のごく一部であるその部分の内容はこうである:

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Monday, March 11, 2019

もう春です

【3月11日 記】 だんだん暖かくなってきた。

寒くて震えていたらいつの間にか暖かくなり、それがいつの間にか暑くなってぐったりしてたら、そのうちに涼しくなって、気がついたらまた寒くて震えている。

──そういう循環を一体いつまで何回続けるのだろう、と思ったことも何度かあるのだが、しかし、世界中どこの国でもこんなに律儀にくっきりと四季が巡っているものでもないだろう。

そう考えると、この四季のめりはりは、やっぱり日本人の精神性と言うか、発想の仕方と言うかに確実に影響を与えているような気がする。例えば輪廻転生とか因果は巡るとか…。

そういう(理屈はともかく)感性って、こんな風土の中で生きてきたから培われたってことはないだろうか、などと考えてみたりする。

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Tuesday, February 19, 2019

ambiguity と ambivalence

【2月17日 記】 wowow から録画しておいた『スリー・ビルボード』を観た。どう書けばいいのだろう。ひと言ではとても言い表せない。ただ、さすがにキネマ旬報ベストテンの外国映画部門第1位に輝いただけのことはある。

とある田舎町に娘がレイプされた果てに殺された中年女性がいる。彼女がある日思い立って、人気の少ない街道沿いの、今は何も貼られていない3枚の看板に広告を出した。自分の娘を殺した犯人が何ヶ月も捕まらないことを憤って、警察署長をなじる内容だった。

田舎の警察署長と言えば、役職としては地方の名士である。役職だけではなく、実際に彼は人柄も良くみんなから慕われていた。おまけに彼が膵臓がんで余命幾許もないことは住民全員が知っている。

そんな所長をなじる看板を出したりすると、波紋が起き、彼女への風当たりが強くなるのは目に見えている。

加えて、田舎の警察官は署長のような穏健な男だけではない。差別意識丸出しで権力を振りかざし、平気で暴力を振るうような奴だっているのだ。

そんな彼女と他の住民と警察官たちの確執を描いた映画だ。いや、確執を超えて、それは明らかに非合法暴力による抗争である。

ここで描かれているのは、しかし、正義と悪の分かりやすい対立や対比ではない。それらがものすごくぐちゃぐちゃに入り乱れた人間という存在が描かれている。

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Tuesday, February 12, 2019

どう?

【2月12日 記】 「それで学校はどうだ?」──小さい頃にそんな質問をされて困惑した記憶がある。久しぶりに会った親戚のおじさんとかから、「何年生になった?」という質問に続けて。

いや、親戚のおじさんやおばさんばかりじゃなくて、普段子供の日常生活になんかほとんど見向きもしていなかった父親にも、突然「ほんで、学校はどやねん?」などと訊かれたことがあったように思う。

「どやねんって何が?」と思うのだが、訊いた方はどうやら「楽しい」などと答えてほしがっているように見受けられる。でも、どうと訊かれても、学校はひと言で言えるほど単純な場所ではない。

学校は楽しいところでもありしんどいところでもある。どっちの要素のほうが多いかを比較してどちらか一方に結論付けるのは間違っている。──と、子供の頃にそこまで明確に考えてわけではないが、なんとなくそんな感じでいたのは確かだ。

それにそもそも学校は楽しいから行くものでもしんどいから行かないものでもない。自分の意志や感じ方とは何の関係もなく、まず行かなければならないところだから行くのである。──子供ながらに(と言うか、あまり子供らしい無邪気な存在ではなかったからかもしれないが)、僕はそういうことを基本的な認識として持っていた。

それをどうかと訊かれても困るのである。どうだったらどうだと言うのだろう?

逆に、不用意に訊いて「楽しくない」と言われたらどうするんだろう? 楽しくなくても学校には行かなければならないのである。「楽しい」と言われたら、「そうか、それは良かったな」「何が一番楽しい?」などと会話が進むのだろうが、「つらい」「行きたくない」などと答えられたら、それを聞いた大人はどう対処するのだろう?

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Thursday, January 10, 2019

起きられない子

【1月10日 記】 日本生命の CM を見ていて思い出した。今ネットでも評判になっている、清原果耶が女子高生を演じているあのCMである。彼女を優しく見守っているお父さんが実はもう亡くなっていたことがラストで判るあの CM である。

あの CM の一番長尺のバージョンの初めのほうで、清原果耶が学校に遅刻しそうになって、「どうして起こしてくれなかったのよ」と母親に当たるシーンがある。母親は「何度も起こしたわよ」などと言う。

同じような光景が我が家でも週に何度かあった。

僕ではない。僕は小さい頃から今に至るまで寝起きが非常に良くて、大体は目覚ましがリッと鳴った瞬間に起きている。今は目覚まし時計というものは使っていないが、昔は新しいのを買いに行くと必ず「できるだけ音の小さなやつ」(秒針が無音で、アラームがうるさくない、または音量を自在に調整できるやつ)を探して選んでいたほどだ。

僕が目にしていたのは姉と母のやりとりである。起きられなかったのは姉で、ほぼ上記の CM と同じだった。姉は「なんで起こしてくれなかった」と怒り、母はあの CM の母ほど穏やかではなく、何度起こしても起きなかった娘に対して時に逆ギレしていた。

そんな姿を日常的に見ていて、僕はふと思ったのである。

どうして姉は起きられないのに母は起きられるのだろう?
どうして子どもは起きられないのに大人は起きられるのだろう?

と。

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Tuesday, December 18, 2018

運は使い切ったか?

【12月18日 記】 僕はあまり大きくない懸賞には割合よく当たる。

PayPay は1回しか使わないうちにキャンペーンが終了してしまったが、それでもその1回だけの購入が全額(と言っても 658円だが)バックになった。

この1ヶ月間に、とあるキャンペーンで Tポイント 1000点が当たり、とあるアンケートに答えて抽選で Amazonポイント 1000点が当たった。

長い人生を振り返ると、最大級の例としては、宝くじで5万円が2回、なんかのキャンペーンで Tポイントが1万点、本を買ったらおまけでついてきた図書くじで図書券 10万円分が当たったことがある。

で、そういうことを言うと、必ず「そんな小さなことで運を使い切っているんだよ」と嬉しそうに言う人がいる。

僕はそれが不思議で仕方がない。いったいどういう精神状態が彼/彼女をしてそんなことを言わしめるのだろう?

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Wednesday, November 21, 2018

元号の理屈

【11月21日 記】 僕は元号をできるだけ使わずに西暦で書くようにしている。

別にイデオロギー的な反発があるわけでもなかったのだが、元号が法制化されたときの理屈づけにカチンと来たからである。

あのとき政府は元号を法制化するに際して、日本人の87.5%だか何だかが元号を使用しているという事実を根拠にした。──それはおかしな話である。もしも既に国民生活に充分浸透していると言うのであれば何ら法制化する必要などないはずではないか。

現状の利用率が何%であったにせよ、政府としてはそれに満足できず、もっと強制力を以て元号を浸透させたいからこそ法律を作るのである。

僕はその欺瞞的な論理を耳にして怒り心頭に発した。だから、それ以降、できるだけ元号は使わないようにしている。

とは言っても、自分の生活から元号を排除しようというほどのものではない。単に自分からはあまり元号を使わないようにしているという程度のものだ。でも、結局そのほうが、元号が2つにまたがったときの計算がやりやすいということもある。

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Wednesday, November 14, 2018

ファースト・ネーム

【11月14日 記】 日本人がお互いをファースト・ネームで呼び合わないのは、名前が「姓・名」の順番だからだという説を聞いた。欧米人も日本人もともに姓名の前半部分で呼ぶだけのことで、日本語の名前では姓が言わばファースト・ネームだと言うのである。

それはどうも根拠が乏しいような感じがする。でも、その一方で不思議に説得力もある。

「日本人は名前より苗字が先  → だから先に来ている苗字で呼び合う」という理屈があまりに単純すぎて論理の流れに無理があるのは確かだが、ただ、「名前の成り立ちとして名ではなく姓が先」というのと「名前ではなく苗字で呼び合う」という2つの事柄の間には同じ根っこがあるような気がするのである。

そして、その同じ根っこは中国人や韓国人にもあるような気もするのである。それは、なんか、儒教と言うか、東洋思想と言うか、もっとざっくりと言ってしまうと東アジア人の気質に通じるものがあるような感じがあるのである。

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Wednesday, October 31, 2018

エレベータをめぐる作為

【10月31日 記】 僕はエレベータに乗っても自分が降りる階数のボタン以外はあまり触らない。

以前も書いたことだが、誰かが降りたらいちいち「閉」ボタンを押すのは日本人だけだという話を聞いて、たまたまラスベガスに出張で行った折に観察してみると、確かにいろんな人種が乗り降りする中で「閉」ボタンを押しているのは日本人だけである。

ご丁寧にも、自分が降りる時に乗っている人のために「閉」ボタンを押す人もいる。

たまに日本人みたいな顔をしているのに押さない人もいるのだが、引き続き観察していると、その人の口から出てくるのは中国語とか朝鮮語とかだった。

それで、なるほど、そんなに急いでも仕方がないか、と思うようになって、自分でもあまり「閉」ボタンを押さなくなった(ただし、日本で満員のエレベータの、たまたまボタンの前に立ってしまった時は、押さないでいると「ボーッとしてんじゃねえよ」と言われそうなので押すようにはしているが)。

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