記憶について考える
【2月9日 記】このブログにも何度も書いているように、僕はいろんなことを次から次へと忘れてしまう。
一度観た映画であっても、観たという事実さえ記憶になくて、見始めてから少なくとも暫くは一度観たということを思い出さないし、推理ドラマだったりすると、映画が終わる 10分前くらいに漸く、「そうだ、こいつが犯人だ!」と気づく(と言うか、思い出す)とか…。
「ああ、この小説、前から読みたかったんだ」と思って買った本を読み終わり、「ああ、面白かった」とその本を本棚に持って行ったらそこに同じ本があった(しかも、僕の場合、紙のカバーがかかっていないということは既に読み終えているということだ)とか…。
映画や本だけではない、日常生活の中で起きたいろんなことを次々と忘れる。
もちろん全てを忘れるわけではない。映画や小説でも部分的に克明に憶えているシーンや表現があることもあるし、ほとんどすべて忘れていても、それが面白かったか面白くなかったかという記憶だけは残っていたりする。
そんな僕の文章を読んでくれていた、僕と同年齢の友人が、先日、「君はいつもそんな風に言っているけど、そこまで達観できたら楽だろうね」と言うので少し驚いた。
彼は、「ああ、こんなこと、昔だったらちゃんと憶えていたのに、どうして思い出せないんだろう」などと悩むのだそうだ。
ああ、なるほど、そんな人もいるのか。
僕ももちろん年とともに忘れたり思い出せなかったりすることは増えてきたが、昔からいろんなことを忘れるタチだったので、それを特段気に病んだりはしていない。
ほんの少しだけ記憶が残っていたり、一生懸命思い巡らせたら少し思い出せたりすればそれで良いような気もする。
人間の記憶って、コンピュータのメモリみたいに完全に消去することはできない。もちろん、完全に消えてしまっている記憶もあるにはあるのだが(笑)
逆に、むしろ憶えている必要のない、あるいは忘れてしまいたい記憶がいつまでも消えずに残っていることだってある。
これを例えばコンピュータのメモリみたいに自由自在にデリートできたらなあ、と思う。
そもそもどうでも良いことを憶えすぎているし、今となってはもう必要のない記憶まで生きていたりする。
その記憶を消去してメモリ領域を開けられれば、もっと大事なことをたくさん憶えられるのになあ、と思う今日この頃である。
とても大事なことを完全に忘れてしまって難儀することもないわけではないけれど、僕にとっては忘れないようにすることよりも、新たなことをもっと憶えたい(そのためなら別に過去の記憶が少しぐらい消えちゃっても良いではないか)という気持ちのほうが強いようだ。
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