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Saturday, February 15, 2025

映画『聖なるイチジクの種』

【2月14日 記】  映画『聖なるイチジクの種』を観てきた。

家の中で拳銃を失くした主人公が妻と娘たちに対して疑心暗鬼になる映画だと聞いていたのだが、なかなか銃を失くす場面が来ない。それまでに延々と政治的な描写が続く。

確かにそこまでにたっぷり時間をかけてイランという国の政治と社会の状況を描いておかないと、(イランについて詳しくない一般の観客に対しては)この後半が活きて来ないということはよく解った。

でも、おかげで 167分の大作である。

映画の手法としても、あまりすっ飛ばしたりはしない。

例えば現代の日本やハリウッドの映画なら、廊下を歩いて行くシーンの次はドアを開けるシーン、それから部屋の中から撮った入室するシーン、座った人物のアップ、みたいな感じで進んで行くのだが、それらをワンカットで全部押さえようとする、みたいな形である。

主人公は裁判所に勤める真面目な男・イマン(ミシャク・ザラ)。20年かけて漸く調査官に昇進し、護身用にと拳銃まで支給された ── それほど危ない社会情勢だったのである。当時イランは反政府運動で大揺れに揺れていた。

学生たちと警官は街のあちらこちらで衝突し、暴力が振るわれ、大量の逮捕者が出た。

イマンの娘で大学生のレズワン(マフサ・ロスタミ)と高校生のサナ(セターレ・マレキ)はデモには参加しないものの心情的には女性を抑圧する政府には敵対的で、レズワンの親友のサダフ(ニウシャ・アフシ)がとばっちりで大怪我をさせられてから、ますます政府とも、政府の役人である父とも、古い道徳観がこびりついた母・ナジメ(ソヘイラ・ゴレスターニ)とも衝突するようになる。

そんなときに、意にそまぬ仕事をさせられて精神的に追い込まれていたイマンが、預かっている銃を失くしてしまう。発覚したら出世がパーになるどころか懲役3年なのだ。

なんと言うか、現代の日本人の感覚からしたらとんでもない国だと思ってしまう(ほんの何十年か前までは日本もそんな国だったのかもしれないが)。

古い価値観が宗教/信仰と結びついてしまっているとほんとうに厄介である。カビがはえた、と言うより、むしろ凝り固まってカチンカチンになってアイスピックで突いても割れないような時代遅れの社会認識と道徳観。どこまでも幅を聴かせるパターナリズム。

娘たちに対する愛情はあるものの、そんなパターナリズムと盲目的な権力信仰にどっぷりと浸かっているために、結局ナジメは娘たちにきつく当たるしかない。

「テレビは間違えない」と堂々と言い切る彼女の発言に背筋が寒くなる思いがした。

一方で、警察はほとんど無差別に学生たちに向かって散弾銃を放ち、逮捕して、極刑に処している。

なんという国だ!と思いながら、ふと、しかし、こんな国でこんな映画作っていて大丈夫なのか?と心配になる。

映画が終わってからパンフレットを読むと、監督のモハマド・ラスロフは一度か月収監され、その後再度禁錮年、鞭打ち、罰金、財産没収の判決を受けたが、命からがらヨーロッパに脱出したという。

さらに、夫婦を演じた主演の2人も出国禁止措置を受けているとのことだ。

おお、なんという国だ。なんという映画だ!

映画は当然の如く悲劇となる。

観客は「これではダメだ。なんとかしなきゃ!」と強く感じることになる。

カンヌ映画祭ではスタンディング・オベーションが 12分間続いたとのことである。

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