映画『かなさんどー』
ガレッジセールのゴリこと照屋年之監督は前作『洗骨』を観たのだが、これが馬鹿にならない、とても良い映画だったので、今回も観ようと思った。
冒頭はルージュをブラシでつける女性の口許のアップ。誰の唇なのかはまだ分からない(そして、この口許のシーンは後にもう一度出てくる。が、そのときは別の人物だ ── こういう組み立ては巧い!)。
次は廊下を奥に向かって歩いて行く女性の姿を後ろから追う。こちらも腰から下しか映らないので誰なのかはまだ分からない。水玉模様の青いフレア・スカートが揺れる。そして、そこからすらりと伸びた足には白いヒール。
この監督がこういう画作りで映画を語り始めることに僕は驚いた。男性の監督ではあまりない画だ。大九明子監督みたいな画作りだと思った。
廊下の突き当りには車椅子に座り酸素吸入の管をつけた浅野忠信がおり、その背後に看護師(どうやらここは病院の廊下らしい)と作業服を着た男性。
その男性が浅野に「社長、奥様が来られました」と耳打ちしたところで、青いワンピースの女性の全容が映るのだが、年齢的には凡そ妻とは思えない若い女である。その女がポーズを取り、品を作り、微笑む。
そばで見ていた別の入院患者が「財産目当てとしか思えない」と隣の患者に言う。
ここまではスジの見当がつかないのだが、次第に明らかになる。
青いワンピースの女は、長らく関係断絶していた父・知念悟(浅野忠信)がもう長くないとの報を受けて、渋々東京から伊江島に帰ってきた娘の美花(松田るか)。そして、作業服の男は悟の会社の部下・小橋川(Kジャージ)だった。
そこからは現在の美花と、まだ母・町子(堀内敬子)が生きていた頃の知念家のシーンがカットバックで語られる。時代はころころ変わるが、よく整理がついていて、シーンが変わった直後にも全く混乱はしない。
堀内敬子は僕がものすごく大好きな女優なのだが、今回の堀内敬子も素晴らしい。
病気を抱えて臥せりがちな町子をほっぽらかして、悟は毎晩飲み歩いて、時には香水の匂いをさせて深夜に帰宅したり、本当に助けが必要な時に町子や美花からの電話に出なかったりする。
なのに町子は悟を出会った頃と全く変わることなく深く愛し続けており、娘が悟を悪しざまに言うことをも快く思わない。
悟のほうも、町子に対する愛情は決して失せてはいないのだが、しかし、その態度は改まらない。
町子はそんな悟のことを美花に「お父さんだって辛抱していることがたくさんあるのよ」などと言う。美花は「お母さんは嫌なことを見ようとしていないだけ」などと言うが、町子は「全てを知ることが必ずしも幸せではない」などと言い返す。
ここにあるのは、いかにも旧時代の、ジェンダー・バイアスに歪められた男女観であり倫理観である。今ならそんな夫婦のあり方は皆に叩かれても仕方がない。
でも、ある時代、ある地方に於いては、そして、もっと小さく言うと、あるカップルについてはそういうのが巧く機能していたのである。そして、自分の周りが巧く機能していることを人は幸せと呼ぶのかもしれないとしみじみ思った。
これから観る人のためにあまりあからさまには書かないが、この映画は最初に全てを見せてしまっているので、観客は途中からラストの展開が少しずつ見えてしまう。脚本も手掛けた照屋は、それを隠しておいて最後に観客を驚かせて感動させようなどとは考えなかったのである。潔い作りだと思った。
そう言えば『洗骨』も死生観を描いた映画だった。この監督は死生観を描く監督なんだ、と思った途端に、いや、ひょっとすると沖縄を描こうとすると死生観を描くことがある意味避けて通れないのかも知れないという気がしてきた。
とにかく堀内敬子がべらぼうに巧いし、べらぼうに魅力的だ。劇団四季仕込みの素晴らしい歌声も聞かせてもらった。それが沖縄の民謡(なのかな?)の『かなさんどー』だ。
「愛しい」と書いて「いとしい」の他に古語では「かなしい」とも読むが、この「かなさんどー」も多分「愛さんどー」なのだろう。「愛おしい」(こちらは「いとおしい」と読む)という意味の旧い琉球弁だそうだ。
松田るかという、沖縄県出身で、まだそれほど顔が売れていない女優を起用したのが良かった。ひと目見ただけで誰なのか分かるような女優だとうまく成立しなかったと思う。
Kジャージという人は沖縄の有名なピン芸人らしい。照屋監督は最初「演技は不器用すぎると思った」と言っているが、このたどたどしい独特の喋り方と、コメディアンらしいオーバー目の演技が結局は良かった。
落涙には至らなかったが、まんまと照屋監督の術中に嵌まってうるうるしてしまった。ほんとうに愛おしい映画だった。
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