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Friday, February 07, 2025

映画『ファーストキス 1ST KISS』

【2月7日 記】  映画『ファーストキス 1ST KISS』を観てきた。

塚原あゆ子監督も早いもので5本目の劇場用映画である。

僕は坂元裕二のことは良い脚本家だと思ってはいるが、熱狂的な信者ではない。

ただ今回、塚原あゆ子 + 坂元裕二という取り合わせがどんな風になるのかについては興味があった。

硯駈(すずり・かける、松村北斗)とカンナ(松たか子)は出会ったその日に強く惹かれ合い、交際1か月で結婚を決めたのだが、知り合ってから 15年の年月が過ぎるうちに、気持ちも言葉もすれ違うようになってきて、ついに離婚届を提出するというその日に、駈は駅で線路に落ちた赤ん坊を助けようとして電車に轢かれて死んでしまう。

── と、ここまでは導入部分なので、テキトーに手早く描いても良いところなのだが、さすがに坂元裕二の脚本に手抜きはない。

駈が電車に轢かれるところから始まって、駈の遺影があるカンナの部屋に移り、デザイナーとして舞台美術を手掛けているカンナの職場のシーンとなり、同僚の杏里(森七菜)の台詞でカンナが離婚したこと、彼女の最近の日々が冴えないことを匂わせながら、仕事場で奮闘するカンナの姿もユーモアを交えて描いて行く。

その帰り道にカンナは 15年前の初めて駈と会った日にタイムスリップして、駈と出くわしてしまう。駈は 29歳、自分は 45歳である。

その日はさすがに何もできなかったが、前と同じことをすれば同じようにタイムスリップできることを発見したカンナは、何度もあの日に戻って、駈が死なないで済むように歴史を変えようとする。

ここでは熱烈に愛し合っていた2人ではなく、倦怠期を迎えていたのに、やっぱり駈を生かせたいと思い始めたカンナの気持ちの変化を捉えたところがミソである

しかし、カンナが行って何かをするたびに、歴史は少しは変わるのだが、駈がその日に死ぬことだけは変わらない。

── というような設定の映画だ。

この何度も過去に行っていろんなことを試すがどれもダメというのが中盤の面白さなのだろうけれど、多分文章で読んだらもっと面白いだろうし、次はどうするんだろう?とやきもきするかもしれないが、映像的には同じシチュエーションの繰り返しで(もっとも、前回はダサい T シャツだったのが次ではドレスアップしているといった笑いのポイントはあるのだけれど)僕としてはちょっと飽きた面もあった。

まあ、とは言え、何を変えれば駈は死なないのか、どう誘導すれば駈は自分の行動を変えるのか、悩みながら繰り返すカンナの姿は面白くもあり、考えさせてくれる部分もあり、動の松、静の松村という演技の対比もよく効いていた。

そして坂元裕二らしい小ネタ(むしろ小技かな?)も随所に散りばめられている。

で、いつものことなのだが、僕は終盤に差し掛かったところから、「この映画はどうやって終わるのだろう?」とそのことばかりを考え始めていた。そして、「多分こういう形にして終わるしかないだろうな。ここの部分は描かずに終わるしかないんじゃないかな」と思っていたら、大体その通りの構造で終わった。

視点が変わるのである(これ以上書くのはやめておこう)。

「うん、この終わり方が一番良いよな。良い処理だ」と僕は思うのだが、しかし、これについては「あの時代のあの後のことを描かないのは、なんか途中で放り出されたみたいな気分だ」的な批判もあるだろうとは思う。

全体としては暖かい感触が残る、後口の良い、素敵な恋愛映画だった。

しかし、まあ、夫婦愛を描くのにタイムスリップを持ち出すしかないのかな?という気も若干したが(笑)

ただ、今回は如何にも塚原あゆ子的な映像上の冴えみたいなものに僕があまり気づかなかったのは、僕がそこまでストーリーに絡め取られて夢中で見ていたということなのかもしれない(あくまで「かもしれない」だが)。

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