『本心』平野啓一郎(書評)
【1月3️日 記】 映画を観る前に読もうと思って買っておいたのだが、その時期には読みたい本がたくさんあって、結局映画を見終わってだいぶ経ってから読み始めることになった。
映画を先に観ることは普段はあまりやらない。動画は視覚刺激が大きいので、必然的に後から読む文章を支配してしまうことになるからだ。
今回もイフィーが出てくると仲野太賀の顔がどうしても浮かんできた。しかし、不思議なことに主人公の朔也については、池松壮亮の顔が浮かぶことはなかった。
僕は仲野太賀と池松壮亮ではどちらのほうが上手い役者かと言えば文句なしに池松壮亮だと思うのだが、どちらのほうが印象に残る役者なのかとなると全く違うのだなあ、などといろいろ考えてしまった。
さて、長い小説を映画化するには必ず削ったり組み替えたりしなければならない部分が出てくる。
原作を読んで分かったのは、映画では作家・藤原に関するエピソードはほぼ完全に省かれている。また、ティリについては、小説の進行上大きな転機となる人物なので当然映画にも登場してはいたが、あくまでひとつのエピソードであり、大きな事件の脇役として描かれていただけで、その後のティリと朔也の交流については全く描かれていなかった。
この原作小説が朔也とティリの場面で終わるだけに、そこを飛ばしたことによって映画の印象は随分変わってきたと思う(とは言いながら、いつものことであるが、すでに僕は映画のラストシーンがどんなシーンだったか全く思い出せない)。
映画と小説の全体としての印象を比べると、小説のほうがなんとなくマザコン色が強いような感じがした。それは平野啓一郎が非常に論理的な作家であり、言葉を尽くして論理の流れや感情の興りを説明しようとするので、朔也と母との件を読んでいると却ってそういう印象が強くなってくるような気がしたのかもしれない。
この小説は元は新聞連載で、平野は単行本化に当たってかなり加筆修正したらしいが、そのうちのひとつが、新聞連載時には「安楽死」と書いていたものを「自由死」に書き換えたということだ。「安楽死」にはあまりに強い意味と印象があり、かつ非常に議論の多いテーマなので、そこを避けたということ。なるほどと思った。
生きることが、ただ、時間をかけて死ぬことの意味であるならば、僕たちには、どうして「生きる」という言葉が必要なのだろうか?
といったところからも分かるように、平野が亡くなった母親を「ヴァーチャル・フィギュア」として甦らせるストーリーを考えたのは死ではなく生を描くためのものであったのである。
普段から理屈っぽい作家であるが、今作は時々理屈が勝ちすぎているような印象を与える部分もあった。その一方で、
誰もが、なにがしかの欠落を、それと「実質的に同じ」もので埋め合わせながら生きている。その時にどうして、それはニセモノなんだ、などと傲慢にも言うべきだろうか。
というような非常に切実な思いが描かれていたりもする。
インタビューで平野は、
コロナ禍で再度明らかになりましたが、僕たちの価値観は健常者中心主義になっています。
と言っており、ここにこんなテーマが隠れていたのかと驚いた。
近未来小説を三人称体多視点で書くと、とても大変なことだとわかりました(笑)。
とも言っており、なるほどこの作家は(「分人論」もそのひとつだが)いろんなことを深く考えながら書いているのだと改めて驚いた。
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