テレビや配信ドラマ/アニメの完結編としての映画という戦略
【12月27日 記】 僕の会社員時代の 10年先輩に、テレビドラマやアニメは見ずにその完結編となる映画だけを観て「よく分からなかった」とか「評価できない」みたいなことを時々書いて人がいる(誤解のないように最初に書いておくと、この文章はその人を貶めるために書いているのではない)。
今年になってからだと、アニメ版第3期の2話だけを観て、今泉力哉監督のテレビドラマ8話は一切観ずにその続編である映画版『からかい上手の高木さん』だけを観たり、テレビアニメとして4期続いた『進撃の巨人』をろくに観ないまま『進撃の巨人 ファイナル THE LAST ATTACK 』だけを観たり、 Amazon Prime Video で配信した【推しの子】8話を全く観ずにその最終完結編である映画【推しの子】 -The Final Act- だけを観たり…。
僕からしたら、そもそも『進撃の巨人』なんて、あれだけ長い長い物語で、あれだけ複雑に入り組んだ展開で、あれだけ大勢の登場人物が出てくるアニメを最後の1作だけ観ても理解できるはずがない、と不思議に思う。
それまでの回を全部観ていてさえ、自分の頭の中でこんがらがったり、ちゃんと思い出せなかったりして、分からない部分が残ると言うのに。
でも、まあ、それにもかかわらず映画だけを観てしまう気持ちが分からないでもない。と言うか、もちろんこれは僕の勝手な想像、勝手な解釈でしかないのだが、そういうことなのかな?と思うところはある。
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中には完結編を総集編だと勘違いして観てしまったみたいなこともあるんだろうけれど、それ以前に、彼らの世代からしたら、「テレビでの放送を観ていなかったら理解できない映画なんてあり得ない」という気持ちがあるんじゃないだろうか?
「映画界が映画ファンに対してそんな不親切なことをするはずがない」という信頼感が抜けないのではないだろうかと思うのである。
たしかにかつて映画が、そんなテレビ番組のおまけや続編みたいな作り方がされることはなかったのだろう。映画はあくまで独立した、それだけで完璧に自己完結した作品であったはずだ。
だが、今ではそんなことはない。何故ならそのほうが客足が見込めるからである。
いきなり何の絡みもない映画を作ると、下手するとほとんど誰も見に来ないかもしれない。いや、もちろん誰も見に来ないなんてことにはならないにしても、しかし、狙いを外してしまったときの予測がつかないのである。
でも、『からかい上手の高木さん』を8話まで通して観た人は多分映画も観るだろう。
あの膨大な『進撃の巨人』を全回見通したのであれば、最後の完結編だけもう一度観たいと思う人は多いだろう。
原作漫画やアニメを見たことがなかった人でも、アマプラで【推しの子】全8回を観てしまったら映画を見に行かないわけには行かないだろう。
だから、最初から歩留まりが読めるのである。映画会社は、そして出資社はそういう確実な方法を好むのである。
でも、それについて行けていない観客がいるということだ。
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僕は映画を観たいとなると、今回の【推しの子】のように、まずそこまでの前段である配信ドラマを観てからにしようと思う。逆にそこまで思わない作品であれば、完結編や総集編である映画には手は出さない。
僕が初めて『進撃の巨人』や『キングダム』を観た時には、それらがあまりに長い話だったので初回からそこまで追いつくのは無理だと判断して、最低限の準備として、映画を観る直前にコミックスの1巻だけは読んで「予習」をした。
多分2つの映画の繋ぎの部分となる WOWOW版の『ゴールデンカムイ』は、次の映画を観たいからこそ、あまり面白くないと思っても、来たるべき映画第2段の予習として全9話を最後まで観た。
逆に予習をする熱意の湧かない映画には手は出さない。
それは、中途半端になるからだ。
今回の【推しの子】 -The Final Act- にしても、映画版では天才子役時代のかなのエピソードや、アクアがテレビのリアリティショーに出演する件や、アクアとあかねの関係や、新生 B小町の誕生をめぐる経緯などは一切割愛されている(と言うか、繰り返しては描かれない)が、そういう背景があるから映画の完結編での盛り上がりがあるのである。
フルコーラスで描かれたドーム・ライブが極限まで盛り上がるのはそれに至る曲折を僕らがつぶさに知っているからなのだ。
B小町の初ライブのシーンが一瞬カットバックしてくるが、ここでほんの一瞬、最後列でペンライトを両手に狂ったように踊って妹たちを応援しているアクアの姿が映る。あのクールなアクアが、である。
配信版を観ていない人は確実に何も気づかないこのカットバックを観て、僕らの胸は再び熱くなるのである。
また、これは恐らく美術スタッフの遊びなんだろうが、撮った映像を編集している五反田監督の背後にお菓子の箱か何かが置いてあって、「五反田監督のお母様からいただきました」という紙が貼ってある。楽屋や前室ではよく見かける風景である。
画面の片隅に映るだったこれだけの、しかも一瞬の映像だが、観客たちはこれを観て、五反田監督がいい歳をして実家暮らしで、「母ちゃん」がたびたび監督の部屋に来たり「ご飯ができたよ」などと言って仕事の邪魔をしていたシーンを思い出す。
こういうのも楽しい見方である。
そんなことが分かっていないと楽しめない2時間の映画なんてひどいもんじゃないか、と思うかもしれない。
確かにそうだ。だが、そんなことをしっかり分かって踏まえた上で2時間の映画を観てくれるファンを、映画界は今や一番大切にしようとしているのではないだろうか?
そういう時代になってきたのだと僕は思っている。
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