映画『八犬伝』
【10月26日 記】 映画『八犬伝』を観てきた。これは相当面白かったぞ。
曽利文彦監督には 2002年の『ピンポン』で度肝を抜かれ、以来ずっと追いかけているのだが、如何せん世間の評判が上がってこない。
いつまで経っても「ただの CG屋さん」みたいな捉えられ方をしている。僕から見たら同じような CG屋さんでしかなかった山崎貴がアカデミー賞を受賞したりして、なんだか随分差がついたみたいで悔しい。
しかし、曽利文彦はやっぱり映像技術から映画製作に入って行った人だから、画作りは飛び抜けて巧いのである。
この映画でも VFX をフルに使った屋根瓦上での派手な決闘シーンはもとより、橋の真上から撮ったり、人物をシルエットにしてみたり、それぞれのカットに工夫があって面白い。
鶴屋南北が終始逆さまになってぶらさがっているという構図も秀逸だったし、八犬士が揃った画では最初はシルエットにしておいて、8人が一斉に走り出したところで炎のような淡い光を当ててくる画作りも渋かった。
この映画のミソは『南総里見八犬伝』をそのまま映画化するのではなく、八犬伝を作中作としながら、それを書いている滝沢馬琴を描いたことである(これは曽利監督の発案ではなく山田風太郎の原作自体がそうなっているのだそうだ)。
映画にすると尺に限界があるので、中で描かれる八犬伝のほうは当然切れ切れのダイジェスト版にならざるを得ない。でも、それで充分面白いのである。
脚本も曽利監督によるのだが、今回の脚本では人物の対比が非常にうまく機能していた。
滝沢馬琴(役所広司)と、そこに入り浸って八犬伝の最初の読者となっている葛飾北斎(内野聖陽)という2人の天才アーティストの、何から何までことごとく対照的な創作スタイル(馬琴と北斎は実際に大親友で、一時は北斎が馬琴の家に居候していたというようなことは、この映画のパンフレットで初めて知った)。
とにかくこの2人がめちゃくちゃ巧いから面白いのである。馬琴の背中で北斎が絵を描くシーンは2人の即興だったというから驚きだ。
そして、芸術家・馬琴とどこにでもいる庶民の妻・お百(寺島しのぶ)の対比。とりわけ物静かな馬琴とけたたましく大声を上げるお百。
さらに、この映画の白眉となったのは、歌舞伎の芝居小屋の奈落での、馬琴と鶴屋南北(立川談春)による「虚」と「実」、「正義」と「悪」を巡るコンテンツ論議──これはめちゃくちゃ面白かった。作品の中で作品論を語るこういう手法が僕は大好きだ。
馬琴と南北の性格や思想信条の違いを見事に浮き彫りにしただけでなく、エンタテインメントとはどうあるべきものなのかという点を巡って、現代にも通じるディスカッションだった。
加えて、この映画自体が八犬伝という「虚」と、馬琴の生涯を描く「実」という2つのパートに分かれている面白さ。
その一方で、映画の中で馬琴が、八犬伝の時代設定ではまだ日本に渡来していなかった鉄砲を作中に登場させ、読者へのエンタテインメントのためにはそのぐらいの嘘はつく、みたいなことを言っているのが、一見馬琴の制作主義とぶつかっているように見えて調和しているという面白さ。
さらに勘ぐると、それは曽利文彦監督のスタンスでもあるのだろうな、などと思えてきて幾重にも面白い。
いやあ、この脚本構成は本当に見事だった。
作中作の八犬士にはあまり大物俳優を充てずに、馬琴伝のほうで、役所、内野、寺島、談春のほかにも馬琴の息子・宗伯に磯村勇斗、その妻・お路に黒木華ら巧い役者を揃えて、とても重厚な作りになった。
一方、作中作のほうでは玉梓の栗山千明、船虫の真飛聖という2人の女優が悪役の妖怪女をやや戯画的に怪演して、こちらはこちらで如何にもエンタテインメントらしい強いアクセントになっていた。
ことほどさようにこの映画は全体の構成が非常にうまく行っている。間違いなく曽利文彦の最高傑作になったと思う。
さて、世間の評価はどうなのだろう?
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