『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』ガブリエル・ゼヴィン(書評)
【7月19日 記】 僕は電子的なゲームにはほとんど親しまずに育った。でも、ゲームの知識がなくても、この小説はしっかり楽しめるし、ゲーム作家である登場人物たちの気持ちはちゃんと伝わってくる。
作中には実際に存在して大ヒットもしたゲームがたくさん登場するので、もちろんそういうゲーム体験があったほうがもっと楽しめるのだろうけれど…。
逆に、ゲームを知らない人が読むよりも、深いゲーム経験がある人のほうが著者の記述に反感を覚えたりする可能性もないではない。しかし、この著者はゲームというものすべてに深い愛情を注ぎ込んで書いている(僕が読んでもそう感じる)ので、それは杞憂というものだろう。
僕はなんとなく、「この小説で彗星の如く現れた大型新人」みたいなイメージで読んでいたのであるが、調べてみたらこの小説が 10 作目であり、作家としても脚本家としても実績のある人で、 2016 年には翻訳小説部門で本屋大賞まで受賞していた。
のちに「アンフェア・ゲームズ」という会社を設立するサムとセイディとマークスの3人がメインキャラクター。サムとセイディは小学生時代から、そして大学の寮でサムと同室になるマークスは大学時代から、トータルで四半世紀以上に亘る物語が描かれる。
サムはコリア系、セイディはユダヤ系、マークスは日系+コリア系のアメリカ人で、所謂 WASP からは程遠い。この辺りにも設定の妙を感じる。
交通事故の重症で入院していたサムと、癌で死にかけていた姉のアリスのお見舞いに来ていたセイディは、たまたまスーパーマリオを一緒にプレイしたことで友だちになる。
その後、ちょっとした感情のもつれから疎遠になってしまうが、大学時代に地下鉄の駅で2人は巡り合う。この小説はその場面から始まる。映画のオープニングのような、とても良いシーンである。
サムはハーヴァード、セイディは MIT という、ともに名門大学に進学している。そして、その時、サムはマークスに借りたピーコートを着ていた。
やがてサムとセイディは再び意気投合して一緒にゲームを作ることになるが、プログラム言語も知らないしグラフィックのデザインもできないマークスが、意外にコーディネーターとして、そして2人の傷つきやすい男女の橋渡し役として抜群の才能を発揮して、会社を興しゲーム販売を成功させる立役者となる。
この3人だけではなく、彼らを取り囲む非常に個性的な登場人物たちの発言も含めて、面白い表現、琴線に触れるような記述が折に触れて出てくる。
ゲームを作るのは、やがてそれをプレイする人を想像することだ。
人生ってね、逃れられない道徳上の落とし穴でいっぱいなの。
「覚えておきなさい、かわいいセイディ。生きているかぎり、人生はとても長いの」
それはトートロジーだとセイディにもわかったけれど、真実を喝破していた。だがあいにく人間の脳は、マッキントッシュのマシンと同じで開けられない。
「で、どうしたらいい?」
「仕事に戻れ。失敗のおかげで手に入った静かな時間を最大限生かせ」元カノと友人関係を築くコツは、相手を愛するのをやめないことだ。
現実世界のコードは僕には逆立ちしたって書き換えられない
セイディには、自分がようやく一人の人間になったのはつい最近だという自覚がある。
子供が好きじゃないのは、自分が子供だったころ子供でいるのがいやだったからだと思う。
あの時代に生まれてラッキーだった
上の引用をざっと読んでも、それがどうしたという感じだろうけれど、長い作品の流れの中で読むと、とても沁みるのである。
同意できないのは、
日本人は大切な”ガイジン”旅行客にたいがい能を見せる。
ぐらいのものである(笑)
終盤、マークスの不在もあって、サムとセイディの関係は非常に長きに亘ってこじれてしまう。この辺の記述がとてもリアルなのである。お互いに尊敬し、愛し合っているとまで言えるのに、それぞれの余計なプライドと行き違いとわだかまり…。そして、大きな悲劇も起きる。
終盤には入院して意識が戻らないマークスのある種幻想的な一人語りの章があり、また、そのしばらく後に突然出てくる、とあるゲームの進行が延々と語られる章では(ゲームの中だから当たり前だが)登場人物がいきなり知らない人ばかりになり、僕などは読んでいて少し戸惑ったのだが、こういう転換と構成は非常に巧い。
そんな場面から作者は一気に物語の完結に導いて行く。かなりの手練である。
完全に持って行かれた感がある。ゲーム小説の形を借りていながらゲーム小説には終始していない。うーん、ちょっと真似のできない名作だと思う。
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