映画『あんのこと』
【6月7日 記】 映画『あんのこと』を観てきた。
入江悠監督の作品を観るのは実に久しぶりで、2018年の『ギャングース』以来である。
あまり細かい筋などは知らないまま観ようと決めたのは、宣伝文を読んでいると、なんかこの映画にはただならぬ“気迫”が漂っている感じがしたからだ。
僕はここのところ入江監督がわりと分かりやすい娯楽作品ばかりを撮っているような印象を持っていた(実際には観ていないのでどんな映画だったかは知らない)。しかし、この映画は明らかに違う。
実際にあった事件、死んでしまった女性をモデルに、入江悠が脚本を書いたとのこと。だからこの映画は、最後にはヒロインが死んでしまうと分かっている。
そのヒロインである杏(あん)を演じたのは河合優実だ。今年1月期の TBS のドラマ『不適切にもほどがある』でブレイクした、などと言われることが多いが、僕が彼女を最初にいいなと思ったのは城定秀夫監督の『愛なのに』(2022年)での、瀬戸康史に一方的に恋をする女子高生役だった。
あれからあっという間に主演級になった。
杏は悲惨な環境に生きる少女だった。
家が貧乏だったのでいつもスーパーで万引きしていたら、それが学校に知られてしまったので、小学校の途中から学校には行っていない。
シャブを打っている。売春をしている。家にはたまにしか帰らない。
母(河井青葉)と祖母(香川恵美子)の3人で住んでいるアパートはゴミ屋敷だ。そこで母は男の客を取っている。
男を紹介してあんに最初に売春をさせたのもこの母親である。そして、あんに対しては高圧的な態度と暴力で彼女を支配しようとする。何よりも、自分の娘をママと呼ぶ異様さが怖かった。
ある日杏は警察に捕まって収監される。しかし、出所後、逮捕時に尋問した多々羅という風変わりな刑事(佐藤二朗)にいろいろ助けられて、クスリをやめるための会合に顔を出し、やりたかった介護の職を得て、DV の母からも逃れてシェルター・ハウスで一人住まいを始め、夜間学校に通って小学校で止まっていた勉強も再開する。
クスリはやめられている。多々羅と、多々羅のところによく来る雑誌記者・桐野(稲垣吾郎)の3人で食事に行ったりもして、そこそこ安寧な日々が続くように思われた。
しかし、そこで突然コロナ禍が始まる。職場からは一旦レイオフされ、学校は休校、多々羅は逮捕されて警官を辞める。
挙げ句の果てに、ある日突然、隣室の女(早見あかり)に彼女の息子を無理やり預けられ、その母親は消えてしまう。杏はまたも厄介事を背負い込んで誰にも相談できないひとりぼっちになってしまう。
多々羅も桐野も結構ややこしい(性格や立場の)人物だった。でも、確かに彼らは杏に寄り添ってくれる存在だったのだ。
これはあちこちに“伏線”とやらを撒き散らしておいて終盤で順番に“刈り取って”楽しむゲームみたいな映画ではない。こんなことがあってはいけないという状況が次から次へと映し出される。そして、主人公が死んで終わる。
作者が何を言いたかったのか分からんと言う観客もいるのかもしれない。作者が言いた語ったのはこの映画全体である。そこからどれだけのことを感じ取ることができるかが観客の力量なのである。そう、観る人は明らかに試されている。
僕が感じたり考えたりしたことの中でひとつだけはっきりとまとめられるのは、「ああ、人の絶望感というものはこういう風にして訪れるのか」という感慨だった。
映画の冒頭は繁華街の裏道みたいなこところ歩く杏を後ろからあおって撮った映像。無音である。
最後にもう一度その映像に戻って来る。映画は終わる。重くて、痛くて、息が詰まりそうな映画だ。
彼女の死に対して、いろんな人がいろんな反応を示す。うなだれる人、感謝する人、「わかんねえよ」と言う人。しかし、いずれにしても彼女はもう死んでしまってどこにもいない。人は死んでしまったら終わりなのである。
◇
製作委員会は木下グループと鈍牛倶楽部の2社。
最近自社のタレントが主演する映画に出資する芸能プロダクションは少なくないが、果たしてオダギリジョーの監督作品や主演作品でもそうだったかな?と、変なことが気になって調べてみたら別のことが分かった。入江悠も鈍牛倶楽部に所属していたのである。
まあ、それはそれとして、この事務所が今かなり本気で河合優実を押しているのはよく分かる。今作ではそれに応える熱演だった。
そして、何よりも佐藤二朗の怪演。ああ、人間ってこうなんだよな、としんみり思ってしまった。
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