映画『ミッシング』
吉田恵輔は大好きな監督でずっと追っかけている。加えて今回の主演は石原さとみである。見逃すわけには行かない。
石原さとみは僕の好きな女優だ、という言い方はちょっと違う。彼女の顔が好きなのだ(だからと言って、彼女の女優としての資質や実績を貶めるつもりは全くないが)。あの顔はひょっとしたら僕が生涯で見た女性の顔の中で一番好きかもしれない。一日24時間ずっと見続けていても決して飽きないと思う。
ところが、この映画での彼女の役どころは、7歳の娘・美羽(有田麗未)が突然行方不明になり、駅前でビラ配りをするなどして必死で探している母親・沙織里である。警察の捜査の捜査にも、当初は集まってきたマスコミの対応にも絶望し、夫の豊(青木崇高)とふたりっきりで躍起になっている。
いつもイライラして、些細なことにもピリピリして、他人の気持ちを慮る余裕など全くなく、四六時中取り乱して大声を上げたり泣いたりし、何かと言えば周囲に当たり散らす、壊れる寸前の、いや、すでに完全にぶっ壊れてしまった母親役である。
だから、この映画の石原さとみは僕が見てきた中で一番可愛くない、と言うか、ちっとも可愛くない石原さとみだった。
描かれる状況が悲惨である。
娘が消えたとき、沙織はアイドルのライブに行っていた。ソーシャル・メディア上ではそれが育児放棄として叩かれている。
その時娘を預かってくれた弟の圭吾(森優作)は学生時代にイジメに遭って以来常に異常にキョドっていて、その日も美羽を一人で家に帰して、その間にどこに行っていたのかはっきりしない。
唯一粘り強く取材に来てくれている地元局の砂田(中村倫也)はある意味良識のある男だが、組織の中でがんじがらめになり、結局は頼りにならない。
映画の中で唯一まともな(と言うか、冷静な)人間として描かれている夫・豊も、妻の無茶苦茶な言い分に時としてブチ切れてしまう。
吉田恵輔は悪意のある監督だから、人間のそういう欠けたところを次々と見せつけてくるので、観ていてとてもしんどい。この監督の映画で、冒頭でいなくなった少女が最後に無事に保護されてめでたしめでたし、なんて形にならないことは分かっている。だから余計にハラハラする。
観客というものは物語を見ながらついつい「この人は良い人」「こいつは悪い奴」といった風に見方を固定化して話を整理し、安定的に見ようとする。が、吉田恵輔はそれを許さない。
そもそも人間はそんな風に安定的な存在ではないのである。
局の同僚たちが視聴者のウケ狙いに走る中、ひとり報道マンとしての矜持を維持しているように見えた砂田も、無意識に沙織里にやらせめいたリクエストを出したりしている(その背景で、カメラマンがクシャクシャに丸めて棄てられたビラのアップを撮っている画がおかしい)。
自分に向かって車のガラス越しに悪態をついた圭吾にげっそりしていた砂田が、いつしか上司の目黒(小松和重)に対して同じことをしてしまっている。
職場でひとり圭吾をかばってくれていた木村(カトウシンスケ)も、終盤で実はそんなにクリーンな男ではなかったことが判る。
人間ってそういうものなのである。
そして、すごいなと思ったのは、映画の中で3箇所出てくる、画面の奥で本筋とは関係ないところで揉めているシーンである。
──警察署で隣人とのトラブルを「なんとかしてくれ」と大声で訴える男、スーパーで「どうしてヤクルト1000 が売り切れなの」と文句を言っている女性、そして、商店街で「スマホ歩きは危ないじゃないか」「ぶつかったわけでもないのにうるさい」と揉めている男女。
場面によっては主人公たちの台詞が聞き取りにくくなるくらい。こういう悪意のある背景を吉田恵輔は用意するのである。そして、これらの台詞のある端役(善意を示している役もある)を演じているのはワークショップで選ばれた 31人の無名俳優たちだというのも面白い。
沙織里のインタビューを撮っていたカメラマン(細川岳)が、「今のフレーズは虎舞竜の『ロード』を連想するから言い方を変えたほうが良い」と横から口を挟む辺りがなんとも言えずバツが悪い。
そう、一連のそういうバツの悪さを描くのが吉田恵輔なのである。
さて、じゃあ、この映画はどうやって終わるのだろう? このまま行くととても起承転結をつけられそうにない、と思っていたら、「なるほど、そう来たか」という終わり方。うん、「なるほど、そう来たか」としか言いようがない。「なるほど、その手があったか!」ではない。「なるほど、そう来たか」としか言いようのない終わり方だった。
それは「終わっていないぞ」と言っているような終わり方だった。
ともかく石原さとみの壊れ方がすごかった。常にその対照に置かれた青木崇高も見事だった。そしてもうひとりの壊れた人物を演じた森優作もべらぼうだった。
しんどいけどすごい映画だった。
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