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Sunday, March 24, 2024

映画『四月になれば彼女は』

【3月24日 記】 映画『四月になれば彼女は』を観てきた。

川村元気が監督した『百花』を観て、この人は映画監督としてはダメかも、と思ったが、プロデューサーとしては有能な人だとずっと思ってきた。彼の小説を読んだことはないが、映画化された『世界から猫が消えたなら』と『億男』は観ていて、悪くなかった(もっとも、映画から原作小説の出来を云々するわけには行かないが…)。

今回はその川村元気の小説を山田智和が映画化した。これが初の長編だそうだ。

却々解釈するのが難しい映画だと思う。観た人みんなが、「あ、分かる分かる、その気持ち」と言える映画ではないと思う。

僕が思ったのは、この映画は“臆病な大人たち”を描いた映画だということ。

そんな書き方をすると、この映画をバッサリと斬り捨てているような印象を与えたかもしれないが、そうではない。僕だって臆病になってしまうことなんてよくあることだから。

ただ、この映画ではそういう側面が強く描かれていると思った。

獣医の坂本弥生(長澤まさみ)は精神科医の藤代俊(愛称:フジ、佐藤健)の診察を受けるうちに彼に惹かれるようになる。患者が医者やカウンセラーに恋心を抱いてしまう、所謂「転移」という現象である。それに留まらず、ここではフジも弥生に「逆転移」してしまう。これは本来精神科医にあるまじき行為/現象である。

あるまじきとは言っても時々あることだから、そういう場合は担当を外れて他の医者に“リファー”することになっていて、この映画でもそのようにしているのだが、なんであれ、2人とも非常に臆病になっている。

弥生はいつか大切なものを失うのではないかという不安に襲われ、フジは学生時代に結局うまく行かずに別れてしまった春(森七菜)への思いを引きずっていて前に進めない。

春の父親(竹野内豊)は妻に去られ男手ひとつで育ててきた娘を手放すことに対して病的なまでに臆病になっている。

春自身も臆病な自分を乗り越えられず、フジと別れてしまったが、今はフジと一緒に行くはずだった海外の土地を旅して回っている。

そう、ある程度吹っ切れているのは春だけなのである。だから、春はフジに手紙を出す。

春が移動中ということもあるが、フジは返事を書かない。一方で、自分との結婚が決まった弥生にその手紙を見せたりしている。それは決して余裕には見えず、むしろ優柔不断に映ってしまう。

しかし、その弥生が今度はある日突然何も言わずに消えてしまう。フジはますますダメになってしまう。あとは弥生がどこに行って何をしていたのかというのがストーリーの鍵になる。

僕が今イチ乗り切れなかったのは、全般に描き方が抽象的だったからだ。グラスとかオルガンとか、小道具的なものには割とこだわるくせに、人間の描き方が抽象的なのである。

最初のほうでフジと弥生は結婚が決まっていてすでに同棲しているのに寝室を別にしているところが描かれる。しかし、それが何故なのかは描かれない。

行きつけのバーの店長・タスク(仲野太賀)に彼女がいなくなった原因はセックスレスか?と訊かれても、フジは何も答えない。

フジの同僚の医師・小泉(ともさかりえ)がフジに「いつからしてないの?」と訊いたところでも、その問いに対してフジが答えるシーンはバッサリと省かれて、小泉の「なんでそんな状態で結婚しようと思ったの?」という台詞に繋がっている。

観客の側からすると、これでは何だか分からない。「まあ、いろいろあるだろうな」というような気にはならない。この部分を描かないという考えはどこから生まれたのだろう?

何故セックスレスなのか、あるいは何がきっかけで、あるいはどういう流れでそんなことになってしまったかを観客に提示しないと、なんだかリアリティが曖昧にされた気になる。

後のシーンで、春が罹った病気が何なのかということも全く説明されない。

僕は物語を作る上でこういうのは非常に良くないと思っている。抽象的だから誰でも共感する、というようなことはあり得ないのだ。

何だか分からない抽象的な描写を重ね、なんとなく雰囲気だけで押し切ってなしくずし的に観客の心を動かそうとするのは、姑息であり、かつ愚かなプランだと思う。具体的な細部にこそリアリティは宿るのである。

そんな中で、フジに対して、彼が聞きたくないような嫌なことを言うのが、弥生の妹・純(河合優実)とタスクで、彼らの台詞にはしっかりと棘があってリアル感が増していた。純がパチンコ屋で働いているという設定も良かった。

さて、否定的なことをたくさん書いたので、僕はこの作品を一切認めていないという印象を持たれたかもしれないが、なんのかんの言いながらそうでない面もあった。

監督は元々ミュージックビデオ(しかもかなりの名だたるミュージシャンの)や広告映像などを手掛けてきた人で、そう言われれば確かにそういう画作りのできる人だと思った。

世界の絶景地域を春が訪ねるシーンは美しい映像になって当然だが、海辺に立つ春の真上から思いっきり引いた俯瞰で波打ち際を捉える映像などは圧巻だったし、全般にしっとりと、しんみりとする綺麗な画面だった。

全体的なムードの統一感もしっかりあった。役者も悪くない。とりわけ森七菜はやっぱり得難い女優だと思った。

まあ、そんなとこかな。

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Comments

こんにちは
いつも楽しませてもらっています。

今回は「描き切らないもどかしさ」の様なことをお書きになっていますが、先日のNoteで書かれた「open ending」とは全く違うのでしょうか?私も「open ending」という表現を否定はしませんが、今回ヤマエーさんが書かれた「描き切らないもどかしさ」のようなものを感じることがままあります。結末を無責任に見る人に投げかけているような感じです。ある程度の結論を描き切るのは(全てでなくてもよいですが)表現者の責任だと思っています。ヤマエーさんのお考えが聞けたら幸いです。

Posted by: 宮田収 | Monday, March 25, 2024 08:18

> 宮田さま

いつもどうも。

今回の記事はオープン・エンディングとは何の関連性もありません。

この映画についてはエンディングのことを書いているのではありませんし、オープン・エンディングはわざと描かずに解釈を観客に委ねることによって、余韻と解釈の多様性を生んでいるのに対して、この映画に関して言えば、「どうしても描いておくべき、描かないと肝心なことが伝わらないことを何故かすっとばしてしまって、明らかに映画を毀損している」というのが僕の感じ方です。

表現が拙くて誤解させたのであれば申し訳ありませんでした。

Posted by: yama_eigh | Monday, March 25, 2024 09:51

もうひとつ言うと、僕は結論を描ききらないのも表現者の責任であると考えています。

Posted by: yama_eigh | Monday, March 25, 2024 09:54

早速のご回答ありがとうございます。
ヤマエーさんのお考えは理解しました。

1つだけ教えてください。

>僕は結論を描ききらないのも表現者の責任である

は、「表現者が責任をもって結論を描かないのであればそれは尊重されるべきだ。」という理解でよろしいでしょうか?
それとも「表現者には結論を描く責任がある。」と言うことでしょうか?(テクニックとして「結論はあるのだがあえて具体的には描写しない。」と言うのは当然ありだと思いますが。

Posted by: 宮田収 | Tuesday, March 26, 2024 08:53

> 宮田さん

うーむ、僕の表現が拙いんでしょうね。うまく伝えられていなくて困惑しています。

「結論を描ききらないのも表現者の責任である」というのは"売り言葉に買い言葉"的に書いてしまったものでまずかったです。ごめんなさい。

フィクションである限り、僕は表現者に「責任」なんてどこにもないと思っています。読者がそれを尊重するとかどうとかいう話でもないと思っています。

あえて言うなら、「読者や観客の不評を託ってしまっても、それは作者自身の責任である」という言い方はできるかもしれませんが、でも、読者がその責任を追及するなんてどうかしてると思っています。

オープン・エンディングを選ぶか、クローズド・エンディングを選ぶかは作者の表現の志向性であり、選択肢にすぎません。責任とか義務とかいうようなものとは無縁だと思っています。そもそも小説や映画に「結論」なんてものが必要だとも考えていません。

だから、オープン・エンディングを「無責任だ」と糾弾する読者の感覚が僕には異常に思えるのです。「面白くない」「不満だ」というのなら分かります。それは読者の単なる嗜好性です。しかし、それを超えて「無責任だ」と社会的に追い詰めようとする姿勢は全く理解できません。

僕の感じているのはそういうことです。

僕は巧く描かれたオープン・エンディングほど素晴らしいものはないと感じています。圧倒的にオープン・エンディング支持です。

もちろん、「クローズド・エンディングのほうが好きだ」「オープン・エンディングは嫌いだ」と言う人もいて当然ですし、そういう人たちを責めたりはしません。ただ、「無責任だ」という批評に対しては「それは違うんじゃないか」と反論したいところです。

Posted by: | Tuesday, March 26, 2024 09:52

何度もお手数をおかけします。

>オープン・エンディングを「無責任だ」と糾弾する読者の感覚が僕には異常に思えるのです。「面白くない」「不満だ」というのなら分かります。

多分ここですね。私が気になったのは。
おっしゃることはとてもよくわかるし、おそらくヤマエーさんの考え方が正しいのだと思いますが、沢山の作品の中には、どうにも収集が付かなくなってしまい「オープン・エンディング」に名を借りて、ほっぽり出したような作品も無いわけではない。映画はさすがにないでしょうが、連載漫画には多いような気がします。怒られるのを恐れずに言うと、又吉さんの「火花」のラストも描いてはいるのですが「収束が付けられなかった」と感じました。これは「オープン・エンディング」ではないのでしょうが。逆に「オープン・エンディング」に逃げなかったとも感じました。

これも、「面白かった」「不満足であった」でいいのでしょうね。私風で言うと「最低限の責任は果たした。」でしょうかね?

Posted by: 宮田収 | Wednesday, March 27, 2024 08:59

すみません。

>どうにも収集が付かなくなってしまい
収集 ⇒ 収拾 の間違いです。

Posted by: 宮田収 | Thursday, March 28, 2024 08:02

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