『喜嶋先生の静かな世界』森博嗣(書評)
【3月27日 記】 森博嗣の小説は彼のデビュー作『すべてが F になる』を読んで以来である。僕はストーリーよりも、「なるほど!16進数の F か!」とタイトルに惹かれたのだった。
その後は僕が特にミステリや SF のファンではないこともあって読んでいなかったのだが、この小説は所謂"理系ミステリ"ではないがとても素敵な小説だと誰かが書いていたのを読んで、俄然読みたくなった。
確かに、何も起こらない。いや、小事件は当然いろいろと起きるが、推理をしたくなるようなことは何も起こらない。
これは小説というよりは森博嗣の日記か自叙伝のようなものだ。多分彼の大学院時代はこうだったのではないかと思う。
もちろん主人公の名前が森博嗣ではなく「橋場くん」であるように、個別の設定や具体的なストーリーは小説用に作られているだろうけれど、彼が大学や大学院で過ごした雰囲気、そして彼がそこで吸収した無形の財産は、まさにこんな感じのものだったのだろう。
そして、まさにここで描かれている喜嶋先生のような研究者に師事していて、まさにここで描かれているような幸せな日々を過ごしたのだろうと思う。それがビシビシ伝わってくる。
そして、彼が理想とするものの考え方やあるべき社会の姿がとても優しく穏やかに、しかしくっきりと浮き上がってくる。引用したい箇所がたくさんある。
たくさんありすぎるので、ここには書かないけれど、それらは僕らの頑なな固定観念や不要な懸念を打ち砕いてくれる。
そして、僕も喜嶋先生のような人に教わりたかったなあという気持ちにさせる。喜嶋先生の人柄に魅了されて、喜嶋先生に会いたくなる。喜嶋先生と橋場くんのやり取りを聞いていると心が洗われる──そんな愛おしい小説だった。
巡り会えて良かった、読んで良かったと心から思える作品だった。
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