映画『コット、はじまりの夏』
【1月27日 記】 映画『コット、はじまりの夏』を観てきた。大変良い映画だった。世界の映画賞で 60 を超えるノミネートを受け、42 の賞を獲ったというのも頷ける。
まず驚いたのは画額が4:3であったこと。アイルランドではこれが標準なんだろうか?
それはともかく、冒頭は少し分かりにくいのだが、アイルランドの片田舎に暮らす9歳の少女コット(キャサリン・クリンチ)は、母のお産が終わるまで母方の親戚であるアイリン(キャリー・クロウリー)とショーン(アンドリュー・ベネット)のキンセラ夫妻に預けられて、1981年の夏休み一杯をそこで過ごすことになる。
両親がコットを預けることにしたのは経済的な理由である。それが「口減らし」に他ならないことは、父親のダン(マイケル・パトリック)の台詞の中にときどきあからさまに現れている。
だからと言って、たくさんいる娘たちのうちの末っ子だけ預けてどうする?と思うのだが、逆に言うと、それくらいカツカツの暮らしを送っているということなのかもしれない。後に出てくるが、ダンは過去に博打に負けて牛を手放したりしているのである。
キンセラ夫妻には子供はなく、2人で忙しく牧場を切り盛りしている上に、何かと言うと近所同士のつきあいや助け合いに駆り出される。
アイリンはとても優しい女性だ。コットをお風呂で洗ってやり、「おさがり」の服を着せ、髪を梳かし、水汲みや料理の仕方を教える。
ショーンはぶっきらぼうな男だが、決してダンのようなろくでなしではない。あたかも置き忘れたみたいにしてコットにクッキーをやり、新しい服を買うために街に連れて行ってやり、やがては2人で楽しそうに牧場の作業をやるようになる。
コットの足が長いと褒め、だったら足が速いだろうと言い、ドライブウェイの入り口にある郵便受けまでコットに郵便物を走って取りに行かせる。
月夜の浜辺で優しい喩え話を聞かせるシーンはとても美しい。「何も言わなくていい。沈黙は悪くない」という台詞が深く胸に染み込む。
そう、この映画の英題は The Quiet Girl である。
その寡黙な少女の寡黙な表情の中に、彼女の心の動き、と言うか、彼女が彼らの優しさと思いやりを吸収して成長して行く様が、ほんのりと感じられる。
この映画はそんなもろもろのことを、言葉ではなく映像で表そうとしている。それでこそ映画である。
髪を梳かし、水を汲み、牛舎を掃除し、郵便物を取りに走る──そんな日常の風景が何度も重ねられて、観ている者を愛おしい気持ちにさせる。
ところで、この映画の言語はアイルランド語である。原作の小説は英語であったらしいが、監督・脚本のコルム・バレードがアイルランド語に作り替えたのだそうだ。
彼はアイルランド人であり、アイルランド国内でも決して多くはないアイルランド語話者である。
ただ、この映画の中で流れているテレビやラジオの音声はすべて英語である。多分それがアイルランドの現状なのだろう。
しかし、そんな中で唯一英語しか喋らない人物がいる。それがコットの父親・ダンである。アイリンとショーンもダンに話しかけられると英語で答えている。監督はダンのことを「この映画の中で最も悲劇的な人物」と述べている。
しかし、その辺のことが分からない日本人観客も少なくないのではないだろうか。そこは字幕に少し工夫がほしかったところである。
それはさておき、映画公開時に 12歳だったキャサリン・クリンチがとにかく素晴らしい。監督も、これが長編デビュー作とはとても思えない。素晴らしい映画になったと思う。
さて、映画のラストでは当然夏休みが終わり、コットは家に帰ることになる。あんな父親の元に戻って大丈夫かと心配になる。
コットを送り届けて家に帰って行くキンセラ夫妻の車を追ってコットが駆け出して行く。そのコットの後ろから、のっそりとダンがついてくる。それをショーンに抱きついたコットが、ショーンの肩越しに見る(これも見事な場面設定だ)。
これはダンの、親としての優しい気持ちなのか、あるいはまた憎まれ口のひとつも言おうとしているのか…?
たとえ後者であっても、今ではコットは前ほど弱くはないのかもしれない。でも、僕はひたすら前者であることを祈りたい。
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