三宅香帆と映画『ゴジラ -1.0』の追々々記
【11月19日 記】 このところ僕のブログと note は、三宅香帆の記事と映画『ゴジラ -1.0』の記事が非常に多くなっているのだが、三宅香帆が映画『ゴジラ -1.0』について note に書いた記事を読んでこの2つが繋がってしまい、また書かざるを得ない気分になった。
この三宅香帆の分析がまたしても見事なのである。
有料記事なのであまり内容を書きすぎてもいけないのだが、彼女は「戦後」がファンタジーの舞台になってしまっていると指摘しているのである。同じような例として、福原遥が扮した女子高生が戦時中にタイムスリップして特攻隊員と恋をする映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』を挙げている。
「ファンタジーとして機能している」とはどういうことかと言えば、第二次世界大戦が遠い昔の歴史物語として扱われているということだ。
僕らの世代にとって第二次世界大戦は遠い昔の歴史物語かと言えば決してそうではない。それは父母や祖父母が実際に経験した戦争であり、彼らから直接その話を聞かされた時代である。そして、日本の戦争犯罪の処理や補償を巡って、いまだに近隣諸国と揉めているのである。
僕らは軽々にそれを、そんな癒えていない傷の記録と記憶を、ファンタジーの舞台として持ってこようとは思わない。せいぜいが『戦国自衛隊』である。
織田信長が何人の敵を殺したか、どの武将とどの武将が戦ったかみたいな歴史的事実を空想物語に組み込むことはできても、第二次世界大戦を組み込むのはさすがにちょっと躊躇するのだ。
僕の同年輩の友人にこの話をしたところ、彼も深く同意して、「第二次世界大戦じゃあ、あまりにも生々しすぎる」という表現を、彼はしてくれた。
多分下の世代にはそんな感覚はないのだろう。
だから、(これは他の人の note の記事で読んだのだが)、この『ゴジラ -1.0』について、「別にゴジラである必然性は全くなくて、特攻隊で死ねなかった主人公が自分の戦争を終わらせるという個人的な小さなストーリーだ」みたいなことが書けるのである。
なんか、そら恐ろしいと思った。もっとも、その一方で、そこにしっかり違和感を覚えている三宅香帆のようなアラサーがいるのも事実ではあるが…。
もしも少しお金を払う気があったら、あとは三宅香帆の記事を読んでほしい。
Comments