『2020年代の想像力』宇野常寛(書評)
【10月10日 記】 note でフォローしている評論家ではあるが、月額固定の有料マガジンは購入する余裕がなかったので、本になったのは嬉しかった。
しかし、それにしても、よくまあここまでいろんなことを考え、いろんなことを思うものだなあと思う。「なんちゅうか、そんなに難しくこねくり回さなくても、もっと気楽にコンテンツを楽しめば良いのに」などと思う人もいるだろう。
でも、宇野常寛は別に「この作品はひどいから読むな」とか、「こんなダメな作家はやめてしまえ」などと言っているわけではない(例えばこれだけ鋭く村上春樹を批判しておきながら、宇野が村上春樹の熱心なファンだということは行間に溢れている)。
それはあくまで「こんな風に読めるよ」という解釈の提示なのであって、舌鋒鋭いので作家を攻撃しているように見えるが、実は作品を通じて社会を分析し、社会を批判しているに過ぎないと僕は受け止めている。
しかし、そんな風に受け止められずに、直情径行にクソリプを浴びせ倒す読者も少なくないんだろうなと思う。この本の中にも、宇野がそういう反応に辟易して、あるいは怒り心頭に発して書いたと思われる表現が溢れている。
ある視点から考えたダメな作品が別の視点から考えるとよい作品だと考えられる、程度の思考に耐えられない人は社会や文化について、特に過激な言葉を用いて否定的なことを述べる前に少し「ものを考える」ということそのものについて学んで欲しいと思う。
これから僕が記していくのは、作品から得たものから展開する思考の開陳、つまり批評であり、作品の良し悪しに対する評価ではない。(それにしても度々このような断り書きをしないといけないのは、不幸な社会だと思う。)
「仮面ライダーに政治を持ち込むな」とか「反日ゆ゛る゛ざん゛」とか言っている人はまあ、そっとしておくとして(一応言っておくが、君たちはものを考える上での最低限のリテラシーが足りていないだけだ)、
これはこの作品がいい、悪いという判断とは別に(僕は最初からそういう話はしていないのだが)十分に頭を抱えていい問題だと思う。
今日においてエンターテインメントの批評とは、SNS上の共感獲得ゲームと化している。おそらく、こうした声を時間と場所を間違えて(いや、正しく?)投稿すると、たちまち誹謗中傷が押し寄せるだろう。
これらは全て、宇野がこの本で書いている論旨の本筋からは少し外れているのだが、これらを読むだけで彼がどういうスタンスに立っているかが判るだろう。そして、今の日本の世の中がどれだけ自由にものを言いづらい環境なのかということも。
この本は「ボーナストラック」を含めて 30 の章から成っており、章ごとに様々なコンテンツを扱っている。
いくつか例を挙げれば、村上春樹の『街とその不確かな壁』、坂元裕二脚本・是枝裕和監督の『怪物』、庵野秀明監督の『シン仮面ライダー』と『シン・ウルトラマン』、JAZZアニメ映画『BLUE GIANT』、TVアニメ『機動戦士ガンダム 水星の魔女』、渡辺あや脚本によるTVドラマ『エルピス』、新海誠監督の『すずめの戸締まり』、白石和彌監督の『仮面ライダーBLACK SUN』、野木亜紀子脚本・湯浅政明監督の『犬王』、村上春樹原作・濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』、三谷幸喜脚本のTVシリーズ『古畑任三郎』などなど。
以上はいずれも僕が知っている作品だが、全然知らない作品もたくさん取り上げられており、それらも大変面白く読める。「序にかえて」にも書いている通り、宇野はこれらの批評を通じて、今日の情報環境下において「虚構」の位置づけが変わってきていることを明らかにしようとしている。
彼が本書で指摘しているポイントをいくつか列挙すると、
- インターネットの登場に伴う社会の変化──「他人の物語」から「自分の物語」へ
- アニメーションがいまだに逃れられない戦後という名の呪縛
- 性愛を中心にアイデンティティを形成してきた村上春樹の限界
- 社会問題そのものを描くことで得られるダイナミズムを手にできない坂元裕二の自由度
- 「世界を変える」という発想がない90年代的、J-POP的なイデオロギー
- 作品を株券のように採点することしか考えられない、プラットフォームに脳を侵された人々
- 自分の物語を封印し既に存在している社会の風景を描写することを選んだ新海誠
などなど、いやはやよくそこまで読み込んだなあという記述の連続である。なんとも深い。
そして、重ねて書くが、これらは作家や作品に対する毀誉褒貶を目的としたものではない。あくまで現在の日本の社会が抱えている問題点をあぶり出し、えぐり出すための文章なのである。
冷静に読んでほしい。そして、そこから先、自分の考えを進めてほしい
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