【10月9日 記】 映画『白鍵と黒鍵の間に』を観てきた。それほど本数を観ているわけではないが、冨永昌敬は好きな監督だ。
白鍵と黒鍵と言われてすぐに思い出すのは 1982年に Paul McCartney と Stevie Wonder のデュエットで大ヒットした Ebony and Ivory である。
Ebony and ivory live together in perfect harmony
Side by side on my piano keyboard, oh Lord, why don’t we?
(“Ebony and Ivory” by Paul McCartney)
という歌詞から判るように、これはピアノの黒鍵(漆黒)と白鍵(象牙色)を黒人と白人に見立てて、黒人と白人の融和を歌ったプロテスト・ソングである。
もちろんこの映画はこの歌とは何も関係がないのだが、僕がこの歌を思い出したのは、この映画で池松壮亮が2役を演じた2人の主人公は決して live together in perfect harmony とは言えないなと思ったからだ。
ここには南と博という2人の人物が登場する。しかし、いずれも池松壮亮が演じており、ともにピアニストであり、かつ一方は苗字であり他方は名前なので、観客は頭の中で容易にこの2人を合一することができるはずだ。しかも、この映画の原作となっているのは南博というジャズ・ピアニストが書いた自伝的な著書である。
一見して3年前の、まだ駆け出しのころのジャズ・ピアニストが博、3年後の少し自信がつく一方で今の自分に飽き足りずアメリカ留学を考えているのが南なのかなと思うのだが、しかし、この映画は現在の南博と3年前の南博の回想シーンを交互に描いたものではなく、同じ時間軸に(鉢合わせこそしないものの)この2人が別々に存在するのである。
と言うか、若干の回想シーンはあるものの、ここで描かれるのは昭和63年の年の瀬の、ほとんど一夜の物語である。だから、2人の人物はどこかで合一するどころか、完全に分裂したままなのである。
白鍵と黒鍵は調和しない、どころか、白鍵と黒鍵の繋がり自体が見えてこないのである。白鍵と黒鍵の間には果たして何があるのか?マジで悩ましく考えてしまうのである。
この設定は見始めてすぐには見切れないのだが、こういう構造はすこぶる面白い。
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