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Saturday, July 08, 2023

『鈍色幻視行』恩田陸(書評)

【7月8日 記】 僕にとっては『祝祭と予感』以来の久しぶりの恩田陸。圧倒的な、べらぼうな小説だった。

僕は恩田陸を飛び抜けて文章の巧い作家だと思っている。それは読んでいる最中に「うーん、巧いな!」などと感じさせることがないから。

読んでいる最中に「下手だなあ!」と感じさせるような作家はもちろん下手な作家である(本来「下手な作家」なんてものがいてはいけないのだが)。しかし、「巧いな!」と感じさせる作家もまた決して巧い作家ではないのだ。

それは物語の背後に、それを書いている作家の存在を感じさせてしまっているからだ。例えて言うならマリオネットよりも目立ってしまっている人形遣いみたいなものだ。

その点、恩田陸はその小説の中で恩田陸の存在を感じさせることが滅多にない。もちろん感じ方は人それぞれだろうけれど、僕はそのように捉えている。ただただ彼女が紡ぐ物語の糸に絡め取られて、僕らは息つく暇もなく次のページ、次のページへと誘われるのである。

しかし、今回は少し違った。それは、この小説がホラーでもミステリでもファンタジーでも歴史モノでもなく、現代の現実の世界を描いており、それに加えて主人公が学生でも女優でもピアニストでもなく小説家である、しかも、かなり恩田陸本人の思念を注ぎ込んだ感じがする小説家であるからだと思う。

つまり、蕗谷梢の筆致が恩田陸の筆致そのものに見えてしまうのである。

本小説はその章ごとに、小説家である蕗谷梢による一人称、彼女の夫(互いに再婚)であり弁護士の雅春による一人称、そしてその2人をより客観的に捉えた三人称の3つが入り乱れている。

梢は夫の知り合いたちと一緒に豪華客船で2週間の海外旅行に行く。その目的は、完成前に死者が出て三たび映像化が頓挫した“呪われた”小説『夜果つるところ』と、その著者・飯合梓の謎を解くためである。

一緒に乗船したのは『夜果つるところ』の出版や映像化にそれぞれ関わっていた編集者や映画監督(とその妻の女優)、映画プロデューサー、老映画評論家(とそのパートナーの若いイケメン)、飯合梓のファンでありコレクターの漫画家姉妹など。そして、夫・雅春の前妻で、自殺した脚本家の笹倉いずみはなんと3回目の映像化の脚本を書き上げていたということも分かる。

夫に誘われて同行することになった梢は、彼らにインタビューして作品を書くつもりである。ドキュメンタリになるのかフィクションになるのか、その辺りについては自分でもまだ想像がつかない。

そういう舞台設定で、これはまるで豪華客船で起こった殺人事件か何かを、乗り合わせた探偵が関係者を一堂に集めて謎解きをするような構造に似せてあるのだ。

だが、似せてはあるがここでは殺人事件はおきないし、梢は探偵でもない。だから、最後の最後に「犯人はあなたです!」みたいな結末には持って行きようがない。

じゃあ、極めて情報が少ない飯合梓の正体は実はこれこれで、この小説の映像化が三たび妨害されたのはこういうカラクリであった、などと快刀乱麻の謎解きがあるかと言うと、もちろん船に乗って話をするだけでそんなに簡単にそんな結末にたどり着けるはずもない。

いみじくも小説の終盤で蕗谷梢自身がこう語っている:

自分が書いている小説について「大団円」という言葉を意識したことはなかったし、書いている内容からいって、何もかも綺麗に解決するなどということは有り得なかった。むしろどこまで読者にカタルシスを与えるのか、あるいは与えないのかという匙加減についていつも悩む。

そう、この辺りがまさに作家・恩田陸本人、あるいは恩田陸の本領を感じさせるのである。

他にも、

世の中で求められているのは「巨匠が長い沈黙を破り世に放った問題作」か「彗星のごとく現れた驚異の新人の話題作」の二種類のみ。

とか、

いったん出版され世に出たものは、もうみんなのもの、それを読んだ人のものだ。作品そのものが独立していて、もはや作家には属していないんじゃないかな。(中略)これを白井さんや僕が映像化したいと思った。(中略)著者がどう受け取るかなんて考えない。映画監督は皆、そうだと思うよ。(中略)撮る側がみんなそうだというのを知っているから、著者が意外に映像化を喜ばない、本心では希望していないというのも分かるんだ。

とか、

昔、国語のテスト問題にあったわよね。
次の中から、作者が言いたかったことを選びなさい。
(中略)だけどさ、実作者なんて、そんな大したこと考えてるものかしら?
(中略)そんなの、読んだ人が好きに決めてくださいよ。一言で片付けられないからこれだけの長さのものを書いたんだから、って言いたいわね。

などなど、実際の作家にしか書けないような、しかし、読むとまさにその通りだと頷きたくなるような表現が随所にあるのである。

話が随分それてしまったが、そういうわけでこの小説には多くの探偵小説に見られるような大団円も、「解決したな!」という快感もない。

しかし、作中の雅春の台詞:

何かがが解決したかどうかはともかく、◯◯にはなったな。

が、まさに言い得て妙である(「◯◯」としたのは、これから読む人に事前に不要な情報を与えないために僕があえて伏せ字にしたものであり、実際にはここに漢字2文字が入る)。

この小説では(と言うか他の作品でもそうかもしれないが)作者は文中で「解決」することに何の意味も見出していない。しかし、この中で描かれる人物や心理のリアルさと肌理細やかさには到底他の作家には真似のできないレベルのものである。読むに従って、一人ひとりの登場人物の、それぞれの歪さと深い思念が、みごとに際立ってくるのである。

そして、人だけではなく、船内の客室や、海や空や、そして途中で上陸した観光地の景色の描写などが彼らの人生を描く巧みな背景になっているのである。

ここまでにかなりの字数を費やしてしまったので、もう詳しくは書かないが、よくもまあこんな構想で小説を書いたなあと、僕はただただ嘆息してしまった。そこには人生の深いところに刻まれたひだを押し広げたところにある何かがある。

梢は言う:

あたしたちは、ずっと過去に向かって手を振り続けているの。手を振り返してくれる人はどこにもいないというのに。

このどんよりとした、重い湿気を帯びた梅雨時の空気のような深い深い人生観が、僕の肌にゆっくりと染み込んでくるのを、僕は今静かに感じている。

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