映画『渇水』
【6月3日 記】 映画『渇水』を観てきた。企画プロデュースに白石和彌の名がある。
監督は高橋正弥。この人の監督作品を観るのは初めてだが、彼が助監督としてクレジットされている映画は今までに 12本観てきた。うち2本が根岸吉太郎、2本が宮藤官九郎、1本が相米慎二監督。
今どきあまり描かれることが少なくなった貧困を扱った作品だ。それもそのはずで原作は 1990年の芥川賞候補作なのだそうだ。
主人公は前橋市(だったかな?)の水道局職員の岩切(生田斗真)。後輩の木田(磯村勇斗)と組んで、各家庭を回って未払いの水道料金を取り立てる仕事をしている。4か月以上滞納し全く払う気のない家については水道を止めることになる。
ただでさえお金がなくて困っている家のライフラインを止めてしまうわけだから、止める側にも葛藤はあるし、同僚の中には自己嫌悪に苛まれて仕事を続けられない者も出てくる。
僕は子供の頃に昼間から雨戸を締めて静かにしていろと父親に言われたこともあるし、その何日か後に学習机を含む家中のいろんなものに差し押さえの札を貼られたこともあるが、電気や水道を止められたことはない。
僕の場合は係官が学習机の裏側の見えないところに差し押さえの札を貼ってくれた。差し押さえでさえそれくらいの気は使うのである。水を止めるとなると最悪死んでしまう可能性もあるので、相当なプレッシャーはあって不思議ではない。
おまけに岩切は、子供の頃に父親からまともな愛情を与えられず折り合いが悪かったために、自分の息子に対して一体どう接すれば良いのかが分からない。そんなことが発端となって、妻の和美(尾野真千子)は息子を連れて実家に帰ってしまい、彼は自炊して花に水やりをして仕事にでかけ、毎日誰もいない家に帰る暮らしである。
水を止められるほうは失業中の中年男(宮藤官九郎)や全然売れなくなった傘屋の老主人(吉澤健)、そして、幼い娘2人(山崎七海、柚穂)を抱えたシングルマザーの小出(門脇麦)ら。岩切と木田は決して非情な態度で杓子定規に水道を止めたりしない。彼らも悩みながらやっているのだ。
さて、ストーリーとしてはそんなところなのだが、映画全体としては少し物足りない感じがした。まず、そういうテーマだからということもあるのだが、映像的な面白さがほとんどない。ま、それは良いとしても、描き方に今イチ踏み込みが足りないような印象が残った。
小出姉妹のけなげな、しかし痛々しい暮らしぶりを中心に話は展開するのだが、岩切自身の苦悩のほうはそれほどはっきりとは伝わってこない。
この話はどうやって終わるのかと思ったら、終盤で姉妹と岩切の公園でのシーンになり、まあ、この映画は最後に雨を降らさないと終わらないなと思ったら大体そんな感じで、しかし、そこで描かれたのは岩切が最後に自棄になってぶっ壊れたというだけで、それでは何の解決にもなっていない。
まさかそれで終わりはしないよなと思ったら、さすがに続きはあって、最後の最後で仄かな希望を匂わせる形に持って行っているのであるが、それまでに描かれた岩切がどん底まで落ちきっていないので、その仄かな希望の効きが弱いのである。
そして、結局根本的な解決は示されない。誤解しないでいただきたいのだが、僕は全てを2時間の映画の中で解決しろなどと言う気はない。未解決な、あるいはそもそも解決不能ないろんなものを抱えて歩くのが人生だと思っているので、解決しないのなら解決しないで構わない、と言うか、表現としてはそのほうが自然である。
しかし、ならばそこに至るまでに、もっと矛盾に満ちた、切ない、味気ない、息苦しい、苦い感じをもっともっとしっかりと描いておかなければならなかったのではないだろうか? それがないままこういう感じで映画が終わっても結局物足りない感じしか残らない。
これは根本的に脚本を(台詞回しを、ではなく、設定と構成を)練り直す必要があったのではないだろうか。ちょっと残念な作品だった。しかし、白石和彌も磯村勇斗も脚本に惚れ込んで参加したみたいなことを言っている。これには2度びっくり!
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