『黄色い家』川上未映子(書評)
【6月14日 記】 最後まで読んで、よくまあこんな本を書いたなあと思った。──などと言うと、一体どんな波乱万丈の物語なのだろう?と思われるかもしれないが、逆である。
話はそれなりにうねりながら進み行くのだが、それほど派手なことは起きないし、終盤に仰天するような展開があるわけでもない。
冒頭は 2020年、惣菜店に勤める花が、「黃美子さん」が逮捕されたというニュースを見た場面から始まり、そこから 20年前の回想に飛ぶ。
母と2人で風呂なしトイレ共同の文化住宅で貧しい暮らしをしていた 15歳の花は、ある日突然家に泊まりに来た黄美子さんに好感を持ち、後に彼女にばったり出会った時に突然決意して、母を捨て、家を出て、彼女に着いて行く。
そこから花と黄美子さんの共同生活が始まり、やがて2人は「れもん」という名のバーを構える。そこに蘭と桃子という花と同年代の、やはりそれぞれに訳アリの少女たちも加わり、やがて4人で暮らすようになるが、火事で店が焼けてからは食うに困り、やがて花を中心に、彼女たちは違法な稼ぎに手を染めて行く。
花は黄美子さんの影響で風水を知り、そしてのめり込む。黄色が金運を呼び込むカラーと聞いて家の中(西側)に祭壇めいた棚を作り、黄色いグッズを集め始める。
タイトルの「黄色い家」はここから来ているのだが、僕は読んでいて「これでは黃信号の家ではないか」と思った。
黄美子さんは学校でハブられていた花に対して何の隔てもなく優しく接してくれるが、大人の女性としてはどことなく何かが欠けている感じで、最初からやばい匂いがする。
蘭と桃子も最初は無邪気な友だちだったが、2人とも主体性がなく、責任感が強くお金に厳しい花がリーダーシップを取ろうとすればするほど3人の関係は壊れ、だんだん微妙な感じになってくる。疑似家族の絆は崩れ、彼らはやばい方向にずるずると堕ちて行く。
一旦堕ち始めると、もう何をやっても元のところには戻れない。最後のほうで花がカッターナイフで家の壁に塗った黄色いペンキを剥がそうとするシーンが象徴的だ。
他にも琴美さんや映水さん、ヴィヴさんなど、人の世の闇を見てきたいろんな登場人物が絡んでくるが、最初に書いたようにストーリー的にはそれほど大きな弾け方はしない。むしろ、そういうどうしようもない生活の中での花の心の動きを、とりわけ花たちが黄色い家を出ることになる経緯と、それを巡る花の絶望的な思いを、この小説は丹念に追っている。
その絶望的な思いを描くためだけに、この小説はこの舞台を用意したのか!と僕は思った。それだけのために、よくこれだけ紆余曲折のある、しかしあくまで底辺を這うような物語を用意したなと思うし、それだけのためによくこんな長い小説を書こうと思ったなとも思う。
だが、これほど極端な貧困と犯罪を描きながら、花の不安と不信、自己と他者に対する嫌悪感、絶望、投げやり、依頼心といった感情には不思議な普遍性があり、ストレートな共感は持ち得ないが、そこには何か感じるものがあり、目を背けることもできないのである。
多分意識してのことだと思うが、タイトルのみならず、黃美子や「れもん」の名にとどまらず、この小説にはやたらと色の描写が出てくる。
夕暮れの暗い青さ/大きな真っ白な画用紙を思わせる春の光を受けたカーテン/真っ白なハイヒールを嬉しそうに履いてみせた母/茶色のアイシャドウにたっぷりのマスカラが塗られた目元/れんが色の口紅のあとがべっとりとついていたマスク/どの子が普通の家の子で、どの子がそうでないのかが、まるで色の違う帽子でもかぶっているみたいにひとめでわかる/名前を知らない樹木の緑がアスファルトに作りだした濃くて青い影/冷蔵庫の奥から漏れてくる薄い黄色の光/氷の白い表面が溶けてゆっくりと光りだすように甦ってくるいろんな場面/すべてが白すぎるように感じた新しい家/空が明るいか暗いかで、いろんなものがぜんぜん違って見える/鮮やかに光るりんご飴や綿菓子、水の中でちらちらと揺れる金魚の赤色/気がつくとはるか上空で紺色の濃淡に広がって、一番遠いところが夜に溶けはじめていた空/真っ白なふすまに墨汁をまるまる一本ぶちまけるようなはっきりとした嫌悪感/先のほうが黒ずんで、全体が濡れたような艶に包まれた、硬そうな靴/西友で買ったクリーム色のカーテンは光を吸い込んで、大きく発光し、夕日そのものにでもなったみたい/さっきまで金色の西日に満ちていた部屋は知らないあいだに薄青になって/ものすごくいい黄色をしていた金鳥の「サッサ」…
これを読んだだけでも、この本が何を伝えようとしているかをぼんやりと感じ取れたのではないだろうか。
僕は思う。世界を一色に塗りつぶすことなんか誰にもできないのだ、と。
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