『砂漠と異人たち』宇野常寛(書評)
【4月10日 記】 これは大変な労作である。そんな言い方をするとおちょくってるみたいに思われるかもしれないが、いやいや、マジでこれは大変な労作である。
アラビアのロレンスと村上春樹を、ソーシャル・メディアに支配された現代インフォデミック社会に読み重ねたのである。まるで大塚久雄が経済学と社会学を重ね読みしたように。
いや、大塚久雄はカール・マルクスとマックス・ウェーバーの2人を重ね読みしただけだが、この宇野常寛は上記の3つの要素のベースとして吉本隆明をさらに重ねているから4重構造である。
僕は吉本隆明の『共同幻想論』については若い頃に読んだ。正直何を言いたいのかよく分からなかった。それがこの本を読んで逆に理解が深まった。
『アラビアのロレンス』は、もちろん題名は知っていたが、何しろ古い映画なので僕は観ていない。宇野はこのロレンスを、この映画だけではなく、ロレンス自身の著書も含めて多数の文献を読み解き、深い分析を加えている。
村上春樹については、僕はデビュー以来のファンで少なくとも長編は全部読んでいるが、この作家の女性観については厳しい批判があるのは有名な話だ。僕自身はあまりそういうことに囚われずに、ただ面白いから読んできただけなのだが、宇野はその点を厳しく突いている。これもむちゃくちゃ深い分析である。
また、この本の最初のほうで宇野は津田大介が名付けた「動員の革命」についても、民主主義の行き詰まりに加担したものとして否定的に捉えている。僕はインターネット上で展開された「動員の革命」にかなり感動して沸き立ったほうなので、ああ、宇野はこれも全否定するのか、とちょっと淋しい気がした。
僕は宇野が従来から提唱している「遅いインターネット」に感銘を受け、彼がネット上に展開したいくつかの文章だけではなく同名の著書も読んできた。この本はそこからストレートに繋がっている。
アラブ人の中に一人混じってアラビア半島の解放に尽くした英雄と思われているイギリス人 T・E・ロレンスは、結局そんな自分に満足できず、いや、むしろどんどん自分を見失って辛い晩年を送ったそうだ。
宇野はそんなロレンスを批判し、ロレンスを批判した三島由紀夫まで一刀両断にする。
そして、宇野が従来から研究して取り上げてきた村上春樹もまた、宇野によると、ロレンス同様行き詰まって失敗した存在ということになっている。その2人の失敗の原因を解き明かすために引き合いに出されているのが吉本隆明の「三幻想」である。
結構難しいのである。むちゃくちゃ頭を使うのである。ポイントは、今多くの日本人がソーシャル・メディアに囚われてしまっているように見えるが、それはプラットフォームに支配されているのではなく、自らの欲望に縛られているのだということである。
ものすごく乱暴に読むと、宇野が言っているのは、インターネットは今やソーシャル・メディアのプラットフォームによって閉じた相互評価のゲームと化してしまっているが、そこから少し離れてちょっと外を見ようよ、みたいなことかもしれない。
しかし、この著書をそんな風に単純にまとめてしまうのは非常に惜しい気がする。事実彼は「外部を見よう」などとは言っていない。むしろ逆で、
外部ではなく内部に(中略)砂漠を発見する力を得なければならない
と説いているのである。それを彼は「アラビアのロレンス問題」と名付けている。
そして、村上春樹の小説に登場する「壁抜け」をインターネット的なものと捉え、彼の作家としての態度を
歴史を物語ではなくデータベースとして見なし、文脈から切り離して引用することは既存の文脈から解放された解釈を許容する一方で、陰謀論的なアプローチを誘発するのだ。
と批判し、彼の小説パタンを
陰謀論に抗うために、性搾取による自己の強化を選択したのが村上春樹のモデルなのだ。
と断罪する。
そして、内部に砂漠を発見するために必要なのは「歴史に見られている」という感覚であると分析し、宇野と同じく走ることを趣味としている村上春樹の走り方を批判したあと
ロレンスはアラブの砂漠に、村上春樹がノモンハンにそれぞれ目的をもって、その心身を運び、歴史を「見る」ことを選び取ったこととは対照的に、ランナーが走ることそのものを目的に走るとき、その身体は歴史に「見られる」ことになる。
歴史に「見られる」ことで、僕たちは時間的な外部に接し、自立の手がかりを摑むことができるのだ。
移住者のように住み、ランナーのように動くことなのだ。
速さを用いて世界を切断するのではなく、遅さを用いて世界と接続していれば、(中略)彼はその暮らしの内部に砂漠を発見できていたのかもしれない
などと述べている。比喩があまりに深すぎて、これでは「何言ってるかよく分からない」と言う読者もいるのではないかと少し心配になる。しかし、これだけ深いと、やはりこれは大いなる知の産物だと僕は言わざるを得ない。
二十世紀末の三十年を彩ったサブカルチャーの消費が、左派を形成するナルシシズムと右派を形成するコンプレックスの代替物に過ぎなかった。
二十一世紀初頭のシリコンバレーのプラットフォーマーたちが牽引した、ローカルな国家の集合体からグローバルな単一の市場への変化は、共同体(国家)から場(市場)への変化と言いかえることができる。
などと言い切れる洞察力がすごいと思う。
最後に宇野は3つの提案をしている。長くなったのでもうここには書かないが、うん、確かにそういうことを意識して僕らは生きるべきなのかもしれないという気にさせてくれる、べらぼうな著作だった。
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