映画『ロストケア』
【3月26日 記】 映画『ロストケア』を観てきた。やりきれないテーマの、重苦しい映画である。
この映画は犯罪を扱ったものであるが、真犯人や手口を観客に隠して進めるような類の作品ではないので、かなり先までストーリーを明かしても良いのではないかと思うが、もし何も知らずに観たいというのであれば、ここから先は読まないほうが良いと思う。
僕自身は長澤まさみと松山ケンイチというだけで観たので、ストーリーはおろか、どんな設定なのか、何を扱った映画なのかさえ全く知らずに観た。結果的にそれはとても良かったと思う。
一人住まいの老人の家で殺人が起きる。殺されたのはその老人と、彼が介護サービスを受けていた会社のセンター長(井上肇)だった。
最初は金に困ったセンター長が盗みに入って老人を殺したあと、誤って階段から転落して死んだと思われたのだが、実はその介護サービス会社の模範的な介護士だった斯波(松山ケンイチ)が犯人だったと分かる。
斯波の取り調べに当たったのは検事の大友(長澤まさみ)と助手の椎名(鈴鹿央士)だった。そして、取り調べの中で斯波は他にも 41人の老人を殺していたことが分かる。しかも、彼はそれを殺人ではなく「救った」のだと言う。
このドラマは検事室における2人の会話劇だと言える。もちろん他のシーンもたくさんあるのだが、ここでの会話劇が一番の見どころである。お互いの経験と理屈と信念の応酬、そして論点のすれ違い。大友に何を言われても、全く信念が揺るがない斯波に対して、自分の母と、離婚してもう 20年以上会っていない実の父親のことが脳裏に浮かんでたじろいでしまうこともある大友。
これは舞台にしたら良いんじゃないかと思う息詰まるシーンだった。
介護殺人という胸塞ぐ出来事がテーマであり、僕も含めてある程度以上の年齢の日本人の多くが、多かれ少なかれ近いものを経験したり、あるいは考えさせられたりしてきた問題である。どちらの意見を聞いても、それが正しい、それは間違っていると自信を持って言えない問題である。
ほんとうにやりきれない気持ちになる。それに対して、映画はもちろん「これが正解です」みたいなことは言わない。言えるはずがない。
カメラが凝っていて、検事室の窓の、角度を変えて4枚並べてあるガラスに4人の長澤まさみが映っている。ピカピカのテーブルの上にも長澤まさみの逆さの映像が映っている。この辺りの画作りは人間の多面性を象徴しているように僕は感じた。
最後の刑務所の面会室のシーンでは単純な長澤・松山の2ショットにはせずに、どちらか一人と、その横に透明アクリル板の仕切りに映ったもう一人の像を映して擬似的な2ショットにし、それを長澤側と松山側から切り返し切り返し映して行く。人間の虚と実を映すような、とても意味深長な画作りだった。
最初のほうのシーンで、父親の葬式に現れた斯波に優しい言葉をかけられて羽村(坂井真紀)が泣き出すシーンがあった。斯波の話を聞いているところから固定カメラの長回しで坂井の表情を追って、神妙な顔から泣き出すところまでたっぷり時間を取っているのを見て、ああ、こんなところにこんなに時間をかけるのかと思った。
大友が老人ホームにいる母親(藤田弓子)を訪ねて泣き出すシーンも同じようにたっぷり時間をかけた1ショットだった。こういうシーンをこういう風に撮るのは作り手にとってとても大事なことだったんだろうなと思う。
長澤まさみと松山ケンイチは、全く打ち合わせていないにもかかわらず、2人とも同じように現場ではお互いあまり話をしないようにしようと決めてやっていたのだそうだ。こういうエピソードってすごいと思う。おかげで行き違ったままの2人がリアルに描き出されていた。そして、この2人に加えて斯波の父親を演じた柄本明も凄かった。
最後のシーンを観ていて、「あ、これ以上余計な台詞を言わせずにここでバッサリ終わったほうが良い」と思ったら、まさにその通りの終わり方をしてくれた。
前田哲という監督は非常に多作な人だが、この映画は紛れもなく彼の代表作になったのではないだろうか。
約10年前の日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作が原作だが、大友を男性から女性に変え、他にも彼女の設定をいろいろ変更したのだそうだ。脚本は前田哲の単独執筆で始まったが、途中から女性目線を買われて龍居由佳里が参加したとのこと。原作者も言っているが、この変更がかなり奏功している。
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