『ナイン・ストーリーズ』J.D.サリンジャー(書評)
【1月18日 記】 そもそも僕は同じ本を何度も読んだり同じ映画を何度も観たりするほうではない。そんな時間があったら新しいものを読み、新しいものを観たいのである。
にもかかわらず、今回この短編集を手にとるのは何回目だろう? 僕が初めて読んだのは大学1年の教養過程で選択した英文学の授業だ。Contemporary American Jewish Writers という教科書で The Laughing Man を(当然原文で)読んだ。
僕はこの時までサリンジャーという作家を知らなかったのだが、最初に読んだのがこの作品であったがために、その後彼の小説を、作品によっては何度も何度も、そして、原文と何種類かの翻訳を合わせ読むことハメになったのだと思っている。
この授業に出ていたのは、恐らくほとんどは文学部の学生で、経済学部から毎回出席していたのは僕ひとりだったはずだ。教室内に知り合いはひとりもおらず、感想を語る相手もいなかったが、僕はそこからサリンジャーにのめり込んだ。
この短編集はライ麦畑とも一連のグラス・サーガとも随分違う。ホールデンもグラス家の子どもたちも出て来ない。9歳の「僕」と、彼が属していた「コマンチ・クラブ」(活動内容はカブスカウトみたいなものだと思えば良い)の「チーフ」との思い出である。
チーフが語る「笑い男」というヒーローのストーリーに夢中になりながら、その一方でチーフの失恋らしきもの、言わば大人の世界を垣間見る少年の繊細な心を描いている。
僕はこれを英語で読んだ後、野崎孝訳で『ナイン・ストーリーズ』9篇を読んだ。そして、長い長いインターバルを措いて、長らく買ったまま読まずにいた雑誌 monkey business (2008 Fall vol.3)の柴田元幸訳でまたこの9篇を読み返したのである。
全く色褪せていない。まあ、何を読んでもすぐにほとんど全部を忘れてしまう僕だからこそ、もう一度新鮮な気持ちで読めたのかもしれないが(笑)
会話(あるいは独白)過多で、人によってはうんざりするようなことばかりウダウダ言っているような小説(それが例えばライ麦畑であり、グラス・サーガだ)とは違って、ここにはもう少し違う世界がある。
作品によっては同じように会話中心であったりもするが、扱っているテーマは少し広く、書きっぷりにも少し変化がある。しかし、「曰く言い難いもの」を描いているという点だけは他の作品と全く変わらない。
The Catcher in the Rye と Franny and Zooey を原文・野崎孝訳・村上春樹訳で3回ずつ読み、他の作品も翻訳/出版されている限りのものを読み漁ってきたが、その全てにおいてそのこと(「曰く言い難いもの」を描いている)は言える。
また、今回この9篇を読みながら、去年読んだ『謎ときサリンジャー―「自殺」したのは誰なのか―』(竹内康浩・朴舜起)が当然繋がってきた。
『バナナフィッシュにうってつけの日』で自殺したのは誰だったのか? 『テディー』で天才少年テディーが語ったリンゴの寓話は一体何を表していたのか。
何度読んでも興味は尽きない。感慨も尽きない。
長く書き始めるとキリがないので書かないが、サリンジャーを一度も読んだことのない人はまずこの短編集を、できればこの柴田訳で読まれるのが良いのではないかと思う。
【追記】 またやってしまった! 読まずに放ってあったと思ったのだが、この本は読んでいたのだ(笑)
monkey business や MONKEY については買ったまま読んでいないものもあって、そのうちのひとつがこの間ここにも上げた MONKEY vol.19 「特集 サリンジャー ニューヨーク」だったりするのだが、この本については読んでいて、ちゃんと書評も書いていた。
カバーがかかっていたのでてっきり読んでいないと思っていたのだが、本を買った6年後にちゃんと読んでいた。まあ僕の場合はこういうことはままあることである。
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