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Tuesday, December 06, 2022

映画『月の満ち欠け』

【12月6日 記】 映画『月の満ち欠け』を観てきた。佐藤正午はそれほど多くは読んでいないが、間違いなく好きな作家の一人で、直木賞受賞作であるこの作品も読んでいる。

ただし、いつもいつも書いているように、僕は読んだ本についても観た映画についても、全体的に良かったか悪かったかという印象以外はほとんど記憶に残っていない。この小説についても同じである。

ただ、あれは長い年月にわたる複雑な物語だったという記憶はかろうじてあり、それを2時間の映画にするために変に端折ってしまうと、原作を換骨奪胎した作品になってしまうのではないかと心配にもなった。でも、廣木隆一監督ならそんなに変なものにはならないだろうと信じて見に行ったのである。

で、これもいつものことだが、映画を見終わったらいろいろ思い出すかと言えば、そんなこともないのである。だから原作と比べてどうかということは具体的には書けない。ただ、これは原作とは違う風合いの作品になっているのだろうな、というのが僕の印象である。

今回も一応自分の書いた書評を読み直してから映画館に出かけたのだが、そこにも書いてあるように、僕は佐藤正午という作家の特徴としていつも2つのことを思い浮かべる。──ひとつは日常生活における微妙なズレや違和感を描く作家であるということ。そしてもうひとつは、読者を宙吊りにしたまま引っ張って行く作家であるということ。

今回の映画にはその2つの要素は感じられなかった。だから、原作とは違うのだろうと思った。パンフを読むと「純愛小説」などと書いてあって、ああ、この小説をそういう風に読んだのか!と思ったのも事実。もちろん純愛が描かれてはいるのだが、僕はそういう捉え方をしていなかった。

今回はあまりストーリーを書かないことにするが、要するに前世の記憶を持ったまま何回も何回も生まれ変わる女性の話である。しかも、違う時代に違う場所で生まれるのではなく、前世で心を通わせた相手と、生まれ変わった後にまた接点がある。だから、生きながらえてきた側には困惑が生ずる。

その女性のひとり(と言うか、ある時代の彼女)・正木瑠璃を有村架純が、ほかの女性たちは菊池日菜子と何人かの子役たちが演じている。そして、生まれ変わりという現象を受け入れられず頑なに拒否し続ける瑠璃の父親を演じたのが大泉洋である。

この2人がとても良い。有村架純は普段は素直で前向きな役が多いが、今回は『3月のライオン』以来の癖のある役柄ではないかと思う。そう言えば、普段は好青年の役が多い田中圭の汚れ役も意外性がある分だけ痛々しくて良かった。

そして、普段はおちゃらけた感じの大泉洋が父親の苦悩を見事に表していた。

『あちらにいる鬼』に続いて今回も昔の廣木監督のような、びっくりするような長回しやびっくりするような引きの画はなかった。が、三角(目黒蓮)が自分の家に瑠璃を連れてきて、螺旋階段を上がって屋上にある入り口にたどり着くまでを、真上からの俯瞰から始めてワンカットで撮るなど印象的な画もたくさんあった。

映画の中で走るシーンが3つある。最初は三角が、次に三角が瑠璃の手を引いて走る。走るシーンはクライマックスに持ってくるのが定番だがこんなに早く走って良いのか(笑)と思っていたら、この2つが終盤のるり(小山紗愛)が走るシーンに繋がってくる。全て下手から上手に走る姿を並走してカメラに収めたシーンだ。

時代を原作から少しだけずらせてジョン・レノンが撃ち殺された年に設定し、そこに彼の楽曲を重ねてきたのが映画として非常に巧く機能していたと思う。パンフを読むとこれは映画オリジナルの設定とのこと。

脚本の橋本裕志がとてもうまくまとめたと思う。おかげで原作とは少し違ったかもしれないが、良い映画になったと思う。

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