『少女を埋める』桜庭一樹(書評)
【12月5日 記】 これは却々難しい本だ。いや、難解だという意味ではない。自分の読み方に戸惑いが生じるという意味だ。
内容も時系列も繋がった3篇を収めた短編集なのだが、最初の「少女を埋める」は一言で言うと自伝的小説ということになる。読んでいて、これは創作なのかノンフィクションなのか区別がつかなくなる。いや、区別をつけるべきなのかどうなのかが分からなくなる。
作家になって東京で暮らしている冬子(=「わたし」)は父の最期を看取るためにコロナ禍中の故郷鳥取に戻ってくる。そこにはずっと前からの自分と母との間のわだかまりがあり、そして、その土地には冬子には耐え難い固陋な考え方と因習が色濃く残っている。
そこに象徴的な逸話として、町一番の美人として有名だった少女を攫って城壁に埋めたという昔話が挿入される。
そこで語られるのはそんな田舎に対する冬子の嫌悪感、と言うよりも、そういう空気に触れることによる憔悴である。彼女は東京の人たちとの電話やメールでのやり取りでかろうじて気を取り直す。
東京の知人たちの価値観、感覚が、弱った心を救ってくれると感じる。
その感じはよく分かる。
正論は理不尽なことから救ってくれる。だから、大好きだ。
人によってはこれを極論と思うかもしれない。しかし、これも僕にはよく分かる。整然とした理論に対する信頼感。
わたし、流行って好きだな。文化であり、町のアートであり、わたしたちがいまこの都市で生きていることそのものの喜びの表現だと思う。
田舎の人から見ればこれも一方的な都市礼賛に見えるかもしれないが、これもよく分かる。古い倫理観や価値観から解放された安心感みたいなもの。
そんな風に何度も何度も気を取り直しながら、冬子は母との、そして郷里のいろんな人たちとの関係性をなんとか乗り切って、父を看取り、見送りの儀式も済ませる。
しかし、ここに書いてあることは全部実際に起こったことの記録なのだろうか? これが小説である限りそんなことはないはずだ。作家はフィクションの設定や進行を必ずアレンジしているはずだ。
だから、これが桜庭一樹の生身の姿だとはあまり思い込まないほうが良い。気になって調べてみたら、どうやら桜庭一樹の本名は冬子ではないらしい。そして、それは多分一例にすぎない。
ところがその次の「キメラ」とその続編の「夏の終わり」になると、これがややこしくなる。
『少女を埋める』を読んだ文芸評論家が、勝手に読み違えて、小説の中には一切そういう記載がないのに、主人公の母親が介護中に父を虐げていたという一文を朝日新聞に載せてしまう。
冬子は母がそれを読んで悲しむことを惧れ、その著者や朝日新聞社を相手にバトルを始める。どうやらこれは桜庭一樹のファンならば知っている、実際にあったことらしいのである。じゃあ、これは小説ではなく記録なのか?
そうではないと思う。これも小説の体を取っているからには、日付や固有名詞が全て実際のものであったとしても小説なのである。
しかし、小説の中で書かれているいろいろな考察や論評、そして、彼女が取ったいろいろな行動が、中には感情的になって行き過ぎたこともあったかもしれないが、僕には概ね同意できるのである。
わたしは考える。我々一人一人に、人間の集団の一員として、時代の最適解に合わせて変容し続ける責務がある、と。
他者のことはわかりえないのだし、わからないものはわからないままおいておき、その事実にじっと耐えなければならない
わたしは年若い方々が上げる「なぜ日本はこんな現状になったのか。上の世代は長い間いったい何をしていたのか」という怒りの声を思い出し、「それは我々大人が長年、和を尊び、口をつぐみ、つぐませあって生きてきたからだ」と思った。
そのたびわたしも、いまでは住み慣れたこの下町にいる自分の姿を少しずつ再定義し、調整し直してはまた暮らしている(中略)ときに物寂しかったりする再定義の努力のたび、自分が成長できていると信じたい。
まことに逞しい作家である。この作家の従来のファンの中には、後半2作にげっそりした人も少なくなかったと聞いたが、僕にとっては共感と希望と勇気を与えてくれる作品だった。
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