事実に基づいている
【12月21日 記】 昨日、映画『ラーゲリより愛を込めて』に関して、僕は物語が「事実に基づいている」ということについては何の魅力も感じないということを書いた。そのときに書き落としたことをひとつ追加しておきたい。
まず、昨日書いたことを再掲すると、
初めから書くための題材があるノンフィクション的な作品より、ゼロから作り出すフィクションのほうがむしろエライと思っている。
そもそも「事実に基づいている」からと言って、事実ではない。観客が一番感動した台詞や、クライマックスで主人公が取った行動などが脚本家による創造である可能性は低くない。
そういうことに蓋をして、事実に基づいていることを売りにする作品に対してはいつも強い拒否感を覚える。
念のために書いておくと、僕は「好きじゃない」と書いているのであって、「そういう作品があってはいけない」と書いているのではない(「お好きな方はどうぞ」という意味である)。
昨日の記事で「何の価値も認めない」と書いたのは、「そんなもの認めないぞ」という意味ではなく、単に「そういう作品に自分は価値を全く感じない」という意味である。そう「認可」の「認」ではなく「認知」の「認」だ。
さて、上記に加えて思うことは、「これは実話に基づいたストーリーです」と言われると何だか貶しづらくなるということだ。
例えばこの映画を貶すと、シベリアであんな辛い目に遭った山本さんに申し訳ないような気がしてくるから不思議だ。
映画は本来その題材となった実在の人物の人生とは関係なく、純粋に物語として、映像芸術として語られるべきだと思うのだが、むやみに貶すと、その映画が好きな人から「君は山本さんのあの姿を観て何も感じないのか!」みたいな的外れな「反論」が返ってきたりするものだ。
あの映画にしても、もしもこれが完全なフィクションであったなら、少なからぬ観客から、「あの設定はいらなかったんじゃないか」とか「あれは話を盛り上げるために作り過ぎだ。現実にはありえないでしょ」みたいな、それぞれの感じ方に基づいた自由な感想が出てくるはずだ。
しかし、事実に基づいていると言われると、ちょっとそういうことを言いにくくないだろうか? ひょっとしたらそれが映画会社の狙いだったりして、と余計な勘ぐりまでしてしまう。
映画としてのストーリー展開を批評したときに、「いや、ほんとに山本さんが託した遺書が残ってるんだよ」などと言われたりするのはたまらない気がする。
映画を作る上で事実かどうかというのはそれほど大きな要素ではないと僕は思うのである。なのにそれを宣伝文句にするから、僕はげっそりするのである。
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