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Saturday, November 26, 2022

映画『あちらにいる鬼』

【11月26日 記】 映画『あちらにいる鬼』を観てきた。大好きな廣木隆一監督なのだが、内容的にどうにも観る気が起こらなくて先延ばしにしていた作品。脚本は荒井晴彦。

井上光晴と井上の妻、そして当時井上と不倫関係にあった瀬戸内晴美(のちの寂聴)の3人をモデルにして井上荒野が書いた小説が原作。いずれの作家も僕は読んだことがない。しかし、なんで井上荒野がこの3人を取り上げたのか不思議だったのだが、彼女は井上光晴の長女だそうな。知らなかった。

とは言え、これは小説である。ここでは井上光晴は白木篤郎(豊川悦司)であり、瀬戸内晴美/寂聴は長内みはる/寂光(寺島しのぶ)なのだ。

だから、ここで描かれたことが必ずしも実際にあったことではないはずだ。ましてやこの2人に肉体関係があったときには荒野はまだ幼い子供である。彼女が全てを認知できたはずがない。

ただし、両親亡き後これを書くにあたって荒野は瀬戸内寂聴のもとに通ってかなりの取材をしたとのこと。個々のエピソードの真偽は分からないが、全体像としては多分このような世界だったのではないかなと想像できる。

白木はにべもない言い方をすると女癖の悪い男だ。当時の考え方からすると妻にするに最高な女性・笙子(広末涼子)と結婚していながら浮気を繰り返す。映画は白木の妻が白木に言われて(ただし、言われるところは描かれていない)、自殺未遂を図って入院している白木の愛人(蓮佛美沙子)を見舞いに行くところから始まる。

講演会でみはると一緒になった白木は初めて会った瞬間からみはるの着物を褒め、トランプ占いをしてやるなど、気があるのは見え見え。一方みはるのほうも、まずは作家としての井上の筆力に感服し、自分も若い男(高良健吾)と同棲中であるにもかかわらず、次第に井上に惹かれて行く。

一方笙子は夫の悪行にもちろん気がついてはいるが、決して咎めはしない。夫を受け入れ、そして夫が愛した女たちにある種のシンパシーを感じているフシさえある。とりわけ夫と長年の関係にあったみはるにはそうだった。

みはるも白木を妻から奪おうなどとは考えもしなかった。ときには他の若い男とゆきずりの関係になったりもしたが、しかし、そのことと白木への一途な思いは矛盾しなかった。

白木はある意味傍若無人に好き勝手をやっているように見えて、妻やみはるに対して嘘をつくだけの良心は保っていた(生来嘘つきであるという面も描かれていたが)。しかし、浮気相手の女が突然家に押しかけてくるというような事態もしばしば起きていた。

こういうのは現代社会の価値観とはとても相容れないものである。とりわけ外に女を作り、外に子供を設け、しかも彼女たちを勝手に入籍した実の父親を憎み続けてきた僕個人にとっては、それは見ていて楽しい世界ではない。

だが、個々のエピソードは別として、なんかもっと深いところで、人間存在に通底する本質的なものを不覚にも感じてしまったような気がする。

広末涼子はインタビューに答えてこう言っている:

世間一般の夫婦の形とはかけ離れていて、大半の方々は理解に苦しむはずです。「このふたりが理想的か?」というと、それはもちろん違うのだけれど、(中略)ある意味幸せなのかもしれません。

また、原作者の井上荒野はこう言っている:

一般的には夫に愛人ができたら、相手の女を憎むのが普通だと思われているけれど、普通なんてどこにもないんですよね。

僕は瀬戸内晴美が出家した時には高校一年生ぐらいで、何の興味もなかったけれど、何を思って出家なんかするんだろう?と不思議に思ったのはよく憶えている。この映画を見て、今思えば彼女も引くに引けない壮絶な悲壮感を持ってこの道を選んだのだろうなと思う。

今回は廣木監督に特徴的な長回しが何度かあった。彼の長回しは今泉力哉監督のようなカメラを固定しての長回しではなく、カメラに動きがあることが多い。そして、やや引き気味の長回しの後、今回は一気にクロースアップに転ずることが多かった。

カメラが切り替わった後の3人の主演者たちの表情が、三者三様に素晴らしかった。

白木が風呂に入るときもセックスするときも、さらには入院中のベッドで眠っているときさえ黒縁の眼鏡をかけているのが如何にも奇妙であったが、これは意図しての演出であるらしい。それを読んで、ああ、あの眼鏡は白木にとっての仮面の象徴だったのだろうなと思った。人間誰しも仮面を被って生きているものだ。

最初のほうのシーンで、笙子の留守に初めてみはるが白木を訪ね、一緒に歩いてきたらそこに病院の見舞いから帰ってきた笙子が現れ、笙子にみはるを紹介した後、白木が「じゃあ」と言って自転車の荷台に笙子を乗っけて家にむかって漕ぎ出し、みはるが置き去りにされるシーンがあった。カメラは曲がり角で鉢合わせする3人を撮った後、横に移動して自転車と平行に走る。

こういうリリカルなシーンは廣木監督ならではだと思った。他にも良いシーンがたくさんあったが、長くなってきたのでこの辺でやめておく。良い映画だった。

なお、映画の中で白木の作品のうちのいくつかは実は妻の笙子が書いたものだという設定があって驚いたが、はっきりとした証拠はないものの井上荒野自身もそう思っているらしく、彼女の推測では『眼の皮膚』『象のいないサーカス』『遊園地にて』の3篇は井上光晴ではなく、井上の妻の作ではないかとのことである。

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