映画『母性』noteクリエイター特別試写会
【11月9日 記】 抽選に当たって、映画『母性』の「noteクリエイター特別試写会」に行ってきた。
湊かなえの同名小説が原作。湊かなえは一度読んだっきり二度と読んでいない作家だ。
監督は僕の大好きな廣木隆一。今回一番驚いたのは表情のクロースアップが多く、廣木監督らしい圧倒的な引き画も超絶長回しもほとんどなかったことだ。撮影監督は鍋島淳裕。廣木監督とは何度も組んでいるカメラマンなのだが…。
さて、タイトルは『母性』だが、この話は“母性”と言うとあまりにも聞こえが良すぎる。しかし、“マザコン”と切り捨ててしまうのはあまりにも短絡的すぎる、そういう世界が描かれている。
僕はこの映画の宣伝文句に使われている「母性に狂わされた」などという表現をこれに充てることについてはかなりの抵抗感がある。それはちょっと都合の良すぎる言い訳ではないだろうか?
3人の女優が演じる3代の母娘を描いた映画なのだが、この物語の中では、母が子供に求めたのはただただ「良い子」であることだけであった──しかも、2代続けて。
映画の中にも「子供を愛していたのではなく世間体を整えただけ」みたいな台詞があった。
そんな中で3代目の清佳(=さやか、永野芽郁)が初めてその母から娘への“愛”の伝承に反発するわけだが、それと対照的に描かれる、2代目のルミ子(戸田恵梨香)の実母(大地真央)への盲目的な追従は、僕から見るとかなり気持ちが悪い(それはこの2人の女優の名演によるものなのではあるが)。
しかもルミ子は、どう見ても性格が捻じ曲がっていてやたらと大声を張り上げる傍若無人な姑(高畑淳子、これまた怪演であった)に対しても完全服従である。清佳が祖母の前で母を庇うと、あろうことか、母のルミ子から「私の努力をあなたが台無しにした」となじられるのである。
いずれにしても、近代個人主義とも現代多様化社会とも真っ向からぶつかる“母性”(と括弧つきにしておこう)が描かれているわけで、まあ、これを観た人の中にも「母としてのその気持は分かる」みたいなことを言う人がいるのかもしれないが、僕には却々拒否感の強い話だった。
「愛能う限り」などという大時代的な表現を筆頭に、まるで昭和初期の映画のようなその台詞の口調、そして住んでいる家の外観から壁紙の色やデザイン、調度品にいたるまで。見るからに嘘の上に嘘を塗り固めたように思えて、絵に描いたような、作り物感の強い、嫌らしい家庭であると僕は感じてしまった。
そんなことを思いながら途中まで観ていて、あ、そうか、湊かなえは“イヤミスの女王”と呼ばれている作家だったと今さらながら思い出したのである(そんなことさえ忘れていた)。
そして、そのことに気づいてしまうと、映画のそこかしこに嫌らしいストーリーにするための如何にも無理やりな設定が見えてきてしまう。
例えばそれは、ルミ子の実の母が悲惨な状況で亡くなったあと、自分たちは夫の母の家に転がり込み、自分が生まれ育った家には住まずに他人に貸すという辺りであり、清佳の父の日記があんなところにあったという辺りも非常に不自然ではある。
ただ、これはそういう作品なのである。そういうことを分かった上で楽しむ(楽しめればの話だが)しかない。でも、少なくとも映画に関しては、決して嫌な思いをさせるだけのものにはなっていない。そこはさすがに廣木隆一監督だと思う。
途中までのげっそりな筋運びの後さらにげっそりのクライマックスがあり、途中ずっと観客に隠してきた部分が全部明らかにされた後に、最後の最後で主人公の清佳が思索的に、総括的に分析して見せることによって幾分ほぐれてくるのである。
たっぷり嫌な思いを観客に強いた上で、一本気な正義感を幼馴染からも「遊びがない」と揶揄されていた清佳が、最後には少し吹っ切れてくるような感じが素晴らしい終わり方だったと思う。
そう、あの居酒屋のシーンで随分救われたのである。原作を読んでいないので単なる想像だが、あのシーンは廣木隆一監督と脚本の堀泉杏によるオリジナルのエンディングではないだろうか。もし湊かなえがこのシーンまで描いていたのであれば、久しぶりにもう一冊読んでも良いかなと思った。
母と娘で同じ出来事に対する感じ方や記憶が食い違っているとか、衝撃の事実が次々に明らかになるとか、宣伝マンはそういうことを前面に押し出したいようだが、僕はそういうことにはあまり気を取られずに観た。
そういう観方もできる映画であるということを書き添えておきたい。ま、なんであれ、人間というのは悲しい存在である。
11/23 公開。
Comments