映画『マイ・ブロークン・マリコ』
【10月4日 記】 映画『マイ・ブロークン・マリコ』を観てきた。大反響を呼んだ漫画の映画化らしい。
僕の大好きなタナダユキ監督だが、今回は特に予告編がもうめちゃくちゃタナダユキらしい感じで、これは絶対に見逃せないと思った。
おまけに今回は向井康介との共同脚本だ。このコンビはこれまでにも『ふがいない僕は空を見た』(向井の単独脚本)、『ロマンス』(タナダ脚本+向井の脚本協力)があり、抜群の相性の良さは証明済みである。
(今回はラストシーンを含めて結構内容に触れるつもりで書いており、ネタバレもあると思うので、これからご覧になる方はここで読むのを止めたほうが良いかもしれない)
ラーメンを食べていたシイノトモヨ(通称シィちゃん、永野芽郁)が、中華料理屋のテレビで、小学校からの親友のイカガワマリコ(奈緒)が飛び降り自殺したというニュースを見るところから物語は始まる。
シイノは、何を売っているのかは分からないが見るからにブラックな企業の社員だ。結構がさつな女に見える。彼女は仕事をほっぽり出して、まずマリコがひとりで住んでいたアパートに行ってマリコがすでに骨になっていることを知る。
マリコは小さい頃から実の父親(尾美としのり)から性的なものを含む暴力、虐待を受けており、長年にわたり支配され続けてきたことで完全に精神がぶっ壊れている(彼女自身の台詞にも「そうだよ。あたしはぶっ壊れてる」みたいなのがあった)。
そのためなのか、家を出てからも同じように彼氏に暴力を振るわれたりしている。
生来の優しい性格だと思うのだが、何があっても自分を責めてしまう。そんな彼女にとっての唯一の救いがシィちゃんだったのだ。父親や彼氏のとんでもない所業には目を瞑って耐えるだけなのに対して、シィちゃんだけにはべったりと依存して、すっかり甘えている。
奈緒の演技が凄まじくリアルだ。
シイノはそんな彼女を時には鬱陶しい、面倒くさい奴だと思いながら、それでもマリコのことが大好きだったし、一生懸命面倒を見て、優しい気持ちで接してきた。
そんなシイノがマリコの死を知って発作的に行なったことは、マリコの実家に行くことだった。
マリコの義母(マリコの父の後妻)のタムラキョウコ(吉田羊)に取り入って部屋に入れてもらい、彼女の遺骨を強奪し、マリコの父親の眼の前で包丁を振り回して、靴は脱いだまま2階のベランダから飛び降りる。
飛び降りる前に、震える手で包丁を握りしめ、声を震わせてつっかえながら、「あたしはマリコの幼なじみのシイノトモヨだ。刺し違えたってマリコの遺骨はあたしが連れて行く」と、往年のヤクザ映画のような、しびれる啖呵を切る。
しかし、飛び降りたところは土手の斜面で、そのまま転がって全身川に落ちてしまう。それでもシイノは遺骨を抱きしめたままジャブジャブ川を歩いて渡って行く──とんでもないシーンだ。原作でもそうなっていたのかどうか知らないが、この辺りは如何にもタナダユキらしい壮絶な描写だ。
そして、彼女はマリコが生前行きたいと言っていた海に遺骨を連れて行くことにする。マリコには海に行ったという記憶がなかったのだ(この辺りの設定も却々厳しい)。どこの海に行けば良いのか悩んでいた時に、昔マリコが口にした地名を思い出して、シイノはバスや電車を乗り継いで知らない街につく。
シイノの脳裏に時々幻覚みたいに甦ってくるマリコの記憶。そこにはマリコの体温が感じられる──そう思ったのは僕だけだろうか?
その見知らぬ街でシイノはひったくりに遭って全財産をなくす。そこへふらっと現れた釣り人マキオ(窪田正孝)に助けられる。
窪田正孝はこれまでに『ふがいない僕は空を見た』と『ロマンス』にも出ており、こちらもタナダユキとの相性が非常に良い役者だが、今回の彼は今までとは全く違う演技プランで臨んでいるように見えた。これが淡々として、飄々として、実に良い味なのである。
不思議なことに彼は、行きずりのはずのシイノに何度も遭遇する。そして、こんなことを言う(記憶で書いているので正確に台詞通りではないとは思うが):
「考えたんすけど、今ここにいない人とつきあうためには、まず自分がしっかり生きて行くしかないんじゃないすか?」
考えてみたら、シイノが遺骨を持って旅をするというだけの映画だ。それが何だと言われれば何でもない。マリコの人生は極めて特殊なものであり、観客自身の経験と重なるところもないだろう。共感するのも難しいはずだ。しかし、それは完全な他人事ではない。そこがタナダユキなのだ。
他人事ではなく可哀相に思う、というようなものでもない。マリコにしても、シィちゃんにしても、時にはむしろおぞましく思えてしまうぐらいなのだが、そこには目を背けられない何かがある。そこがタナダユキなのである。
最後の手紙のシーンを観ていて、これは多分文面は映さないだろうなと思ったら、やっぱり映さなかったし、それを読む音声も聞かせなかった。
シイノにとって、そこに書いてある内容なんてどうでも良いのだ。どの道マリコの書いた文章なんてどうでも良いことしか書いていないに決まっている。でも、彼女が死ぬ前にシイノに書いた手紙の現物がそこに存在することにこそ、救いがあるのである。
かつてマリコがシイノに救われたように、今度はシイノがマリコに救われる番なのである。
まさにタナダユキらしい、厳しくて、心が洗われる、素晴らしい作品だった。
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