映画『グッバイ・クルエル・ワールド』
【9月10日 記】 映画『グッバイ・クルエル・ワールド』を観てきた。
大森立嗣は僕が好きな監督のひとりだが、今回の目当ては脚本の高田亮だ。
僕が映画館で観た高田亮作品(共同脚本も含む)は全部で 11本あるが、『さよなら渓谷』、『そこのみにて光輝く』、『オーバー・フェンス』、『さがす』など、どれを採っても絶品と言うしかない。今作も期待に違わず凄かった。
ヤクザが資金洗浄のため稼いだ金を集めているラブホテルを“たたいて”金を強奪した5人の行く末を描いている。
それにしても強奪に行くために調達した車がサンダーバードという超大型アメ車だったり、BGM がソウル・ミュージックだったり、今までの日本の犯罪映画とは一味違う。
パンフレットに載っていた対談では斎藤工がクエンティン・タランティーノを引き合いに出しているが、言われてみると確かにタランティーノに通じるところがある。それは(僕が感じたところでは)例えば衣裳や髪の毛、家具や絨毯などの色彩である。
斎藤工は続けてこう言っている:「タランティーノ作品と一番いい意味で違うのはベースにあるビターな世界観だと思います」。うーん、なるほど。
この映画の最初の設定が面白いのは、5人のメンバーは強い絆で結ばれた昔からの仲間などではなく、それぞれが薄ーくしか繋がっていないということだ。
この映画を観ていると主人公は一体誰なんだろうという気がしてくる。
エンドロールで最初に名前が出るのは寡黙な元ヤクザ・安西を演じた西島秀俊である。彼は強奪メンバーの一員だが、実はただただ家族と一緒に静かに暮らすことだけを願っていたのである。
そして、彼と対比的に描かれている(というか、最後になってそういう構図が浮き上がってくる)悪徳刑事の蜂谷(大森南朋)は最後から2番めに名前が出てくる。彼はヤクザと繋がって甘い汁を吸う一方で弱みを握られていて身動きが取れない存在でもある。
当たり前に考えれば、まずこの2人が主人公だとも言える。
しかし、もう一組、主人公と言っても良いのが、強奪したメンバーの1人である美流(ミル、玉城ティナ)と“たたき”の現場となったラブホテルのフロント係・大輝(宮沢氷魚)である。そもそもは大輝が美流に漏らした情報を美流が萩原(斎藤工)に横流ししたことからこの“たたき”チームが組まれることになったのだ。
2人は映画の中盤からペアとして描かれるのだが、この2人がめちゃくちゃ良い。
玉城ティナはデビュー当時はモデル出身の可愛いお嬢さんという感じだったが、このところどんどん演技の幅を広げている。宮沢氷魚については、監督が「体温の低い感じ」を褒めている。確かに銃を乱射する前に「みんな動かないでー」と言ったときの軽くて高いトーンにはぞっとさせられた。
この2人にはどうしようもない寂寥感が漂っており、僕にはボニーとクライドを思い出させた。返り血を浴びるのを防ぐためにビニールのレインコートを着ているのだが、前をはだけているためにあまり役になっていない投げやりな感じが切なかった。
当初美流の彼氏として描かれているのがサンダーバードを運転していた武藤(宮川大輔)で、彼は萩原に借りた金が返せず、それをチャラにすることを条件に“たたき”に参加した。5人の中では一番どうでも良いメンバーで映画での描かれ方も一番軽いという可哀想な役柄である。
強奪に成功しても美流と武藤は使い捨てで、1億もの金を強奪したのにひとつかみの1万円札しかもらえない。それに我慢がならない美流が萩原に直訴したことで事態は悪化する。
そして斎藤工が演じたその萩原だが、彼がメンバーの中では一番粗暴で、かつがさつである。そもそも犯罪で生計を立てているチンピラで、こういう男がメンバーにいたことが命取りになったようにも思える。
さらにもうひとり、止めの位置で名前が出る三浦友和が演じたのが、他のメンバーとは全く毛色の違う、元全共闘、元政治家秘書の浜田である。三浦友和の怪演によってひときわ異彩を放っていた。
それ以外にも大勢の人物が登場するが、それぞれの人物設定も絶妙なら、役者の演技も秀逸であった。
安西の妻で、安西と一緒に必死でカタギの生活を営もうとするみどりを演じた片岡礼子は僕の大好きな女優だが、ひさびさに見応えのある役をもらった感がある。西島秀俊と片岡礼子と言うと、僕は 2005年の『帰郷』を思い出してしまった。
安西にまとわりついて、そんなみどりの希いをずたずたに引き裂いてしまうのが、安西の元舎弟の飯島(奥野瑛太)だ。この人はこういう役に見事にハマる。
それ以外にヤクザの幹部・オガタ(鶴見辰吾)、組長の杉山(奥田瑛二)、萩原と繋がっている悪党(モロ師岡)、浜田にいいように使われている若者(前田旺志郎)など枚挙に暇がない。よくもこんなにいろいろな人間関係を考えたものだと思う。
激しいバイオレンス・シーンがたくさんあるが、これは単なるバイオレンス映画ではない。アクション映画でもないし、何か教訓が残るような物語でもない。斎藤工の言を借りれば、ただただ「登場するどのキャラクターも、共通して手詰まり寸前」なのである。居場所がないのである。
ひたすらそういう世界を映像と音楽で描いている。最後のシーンでの、カメラが動いて役者をフレームアウトさせた後での1発の銃声も意味深長である。
安西と蜂谷がいくらなんでもタフガイすぎるという憾みは残ったが、それにしてもとてつもない映画になった。
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