『平場の月』朝倉かすみ(書評)
【9月6日 記】 全く知らない作家だったのだが、読んでその完成度の高さに驚いた。
中高年の恋物語である。2人は中学の同級生。青砥は妻と離婚して地元に戻った。病院に検査に行ったら、そこの売店に須藤がいた。須藤も今はひとりだった。
そこにあるのはある種中学時代に彼らが抱いた淡い思いの延長であると言えるのかもしれない。しかし、それが十代の恋愛と異なるのは、人は中高年ともなると癌になったり、その結果人工肛門をつける羽目になったり、挙げ句の果てに死んでしまうかもしれないということだ。
もちろん、若者だってある日突然交通事故で死んでしまうかもしれない。しかし、その可能性は 50代の人間が癌にかかる可能性より遥かに小さい。そして、それは自分にも、自分の恋の相手にもいつ起きるか分からない、とても身近な恐怖なのである。
この小説では冒頭で須藤が死んでしまったことが明かされる。しかし、つきあっていたはずの青砥は彼女の死を知らされていなかった。何故そんなことになったのか、そこまでのいきさつが肌理細かく語られる。
とても巧い作家である。
なにが「ほらな」なのか分からない。だが、すごく「ほらな」の気分だった。
なんて、これだけ読むと意味がさっぱり分からない。だが、ひとたびこういう表現が物語の文脈に放り込まれると、そこには曰く言い難い納得感が出てくる。
同じく元同級生で噂好きのウミちゃんが須藤を性悪女のように語っても、青砥は、
独り笑いがこぼれた。まーアレだ、と足を組む。
青砥の内側で、須藤は損なわれなかった。それが愉快だった。
どんな話を聞いても、そこにどんな須藤があらわれても、損なわれないと思った。
ここで巧いのは足を組む描写を入れ込んでいるところだ。こういう小さな工夫によって、須藤への思いが褪せないことでほくそ笑んでいる青砥の姿が脳裏に浮かぶ。
須藤は横の髪を耳にかけた。遠浅の海でちゃぷちゃぷとあそぶような笑みをひらかせ、横の髪を耳にかけ直した。風が出てきた。
こういうふうに突然出てくる海の比喩がなんとも言えず効いている。
須藤は中学時代にすでにひとりで生きて行こうという意志を固めていた。それでも青砥のことはやっぱり好きで、そのことを
それでも、青砥は邪魔だった
と言っている。この複雑な思いがすんなりと読者の心に入ってくる。
青砥は須藤に「一緒になろう」と言うが、須藤は逆に「もう会わない」と言う。青砥は須藤を大切にしたいと思っているが、その一方で自分は単に「ゴタクはいいからおれの言うとおりにしろ」と言っているだけではないか、とも思う。それを彼は
黒々とした剛毛の生えた「本心」である。男臭さをぷんぷんと発散させている。
と形容する。
須藤は「青砥、意外としつこいな」と言う。青砥も「しつこいよ、おれは」と返す。
「でないと終わっちゃうだろうよ」とつづけたら、足元から冷たさがよじのぼり、膝の裏を舐めた。
──ちょっと真似のできない表現である。そして、哀しい。
須藤はひとに相談しない。なんでもひとりで決めたがる。だいたいにおいて須藤が口に出すのは結論だ。
これは若い頃の、いやつい最近までの僕だった。須藤の心の動きも、それを心配する青砥の思いも、今では痛いほど分かる。
中学時代そのままにお互い須藤、青砥と名字で呼び合う 50代の男女。でも、大人になった今でなければ成立しない形で2人の愛は進んで行く。そして、須藤は死んでしまう。
ものすごく静かで、ものすごく深く、ものすごくしっとりとした小説。久しぶりに作家の力量を思い知らされる見事な文章だった。いつまでも余韻が去らない。
Comments