名前考
【8月8日 記】 一概にキラキラネームが悪いと言う気はないのだが、でも、やっぱり最近の若い(あるいは幼い)人たちの名前を見ると、いろいろ考えることがある。
一番思うのは、読みにくい、どう読むのか分かりにくい名前が随分増えたということ。
太郎とか花子とか、そこまで極端な例でなくても、僕らの世代周辺によく見られた名前、例えば健一とか克彦とか雅弘とか、優子とか真由美とか薫とか、そういう名前は大抵の人が間違わずに読めたものだ。
ところが最近では本人に確かめないことには本当にそう読むのかどうか確信が持てない名前が多いし、同じ漢字の組み合わせでも読み方がたくさんあったりする。
例えば男の子の名前によく使われる「翔」という字だが、これは音読みのショウが採用されることもあるし、「かける」と読ませることもあるし、「と」と読ませることもある。例えば 2021年に生まれた男の子の名前で多かった第2位は「陽翔」(はると)なのだそうだ。
「と」は「翔ぶ」から来ているのだが、本来この漢字に「とぶ」という読みはなく、これは司馬遼太郎が『翔ぶが如く』を書いて以来定着したと言われていたりする。
しかし、僕らの世代はなんとなくこの字が「と」と読まれることに抵抗感がある。その感じをうまく説明できないなと思っていたら、先日読んだ平山瑞穂の『ドクダミと桜』の中に見事に説明し切った箇所があったので、少々長くなるが引用してみようと思う。
これは主人公の咲良(さくら)が中学時代の同級生である多実に 19年ぶりに再会するストーリーなのだが、以下に引用したのはシングルマザーになっていた多実の娘の萌愛(もあ)が咲良に対して、自分にこんな名前をつけた母親のひどさを語るシーンである。
「だって私の名前のつけ方からしてめっちゃ頭悪いですよ、なんですか“萌愛”って。“萌える”の漢字の部分だけ切り離してもそれを“も”とは読めないし、“愛”なんてそもそも音読みなんだから、“アイ”としか読めないじゃないですか。“ア”と“イ”に分けて後半を省略するとか、ありえないじゃないですか」
萌愛の自説によれば、漢字を名前に使う場合、そこだけで意味が伝わる形でしか音を省略できない。例えば「萌える」などの動詞は、「もえ」よりも縮めてしまったら、意味がわからなくなる。そして音読みの場合は、いかなる理由があっても音を短縮することはできない。
だから、「咲良」は問題ない。「咲」という漢字には「咲く」という意味があり、「サク」と読ませても「サキ」と読ませてもそこだけでちゃんと意味が通じるからだ。そして「良」は、万葉歌人の「山上憶良」や『忠臣蔵』の「吉良上野介」など、単独で「ラ」と読ませる場合がある。
「お母さんだったら、咲良さんの名前と同じ漢字を使って、平気で“サラ”とかって読ませるんじゃないかと思いますけど」
講釈に耳を傾けながら、思わず唸りたくなった。「萌愛」にかぎらず、「キラキラネーム」などと呼ばれる最近流行りの一連の名前について、日ごろ心の中でもやもやと感じていながらうまく言葉にできなかったことを、この子は実にあざやかかつ明晰に言語化している。やはり聡明な子なのだろう。そしてどうやら、勉強もけっこうできそうだ。
『ドクダミと桜』(新潮文庫)
これは咲良が、中学時代に全然勉強ができなかった多実の娘である萌愛の頭脳明晰さに驚く場面である。平山瑞穂は「思わず唸りたくなった」と書いているが、これはもちろん作中の萌愛が勝手に語りだしたことではなく、作者である平山が萌愛に語らせた理屈なのであって、僕は平山の明晰さに驚いたのである。
ところで、僕の父親は、どこからそんな考えを吹き込まれたのか知らないが、「自分の子供に変な名前をつけるとその子は不幸になる」と思いこんでいた。
彼の言う「変な名前」は概ね僕が上で書いたような「読みにくい、どう読むのか分かりにくい名前」だと思っていただいて良いと思う。
テレビのニュースなどを見ていて、そういう名前の人が事故に巻き込まれたり事件を起こしたりすると、必ず幼少の僕に対して、「ほら見てみい、こんな名前つけるから冬山で遭難するんや」、「な、俺の言うとおりやろ? こんなけったいな名前つけるから銀行強盗なんかしよるんや」などと無茶苦茶なことを言っていた。
もちろん、これは何の根拠もない、偏見に満ち溢れた無茶苦茶な論である。
しかし、近年読みにくい名前の人が増えているのは事実で、そんな人たちが万が一にも不幸な事態に巻き込まれたときに、名前のせいだなんて思わなければ良いなあと、時々思わないでもない。
名前は大体親が付ける。自分では付けられない。特に日本では改名はなかなか認められないとも聞く。
親はそれぞれいろんなことを考えて自分の子供に名前をつける。なんであれ、その名前を本人が良い名前だと思ってくれれば良いなあと思う今日このごろである。
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