『ドクダミと桜』平山瑞穂(書評)
【7月14日 記】 久しぶりに平山瑞穂を読んだのは、note の連載『エンタメ小説家の失敗学』でその名前を思い出して読み始めたからだ。
僕が今までに読んだ平山瑞穂は3冊だ。最初に読んだのが短編集『有村ちさとによると世界は』で、これはアーヴィングの『ガープの世界』を踏まえたタイトルだと思って読み始めたら、もうめちゃくちゃに面白かった。
そしてほどなく、有村ちさとを主人公とする長編『プロトコル』を読んで、これもものすごく面白かった。
こちらは『有村ちさとによると世界は』に比べるとややライトな仕上がりで、アーヴィングとは作風は全く違うものの、しかし、アーヴィング級の豊かな表現力を備えた達者な書き手であるのが分かる。
それで僕はこの作家をこういう作品を書く人だと思い込んだのだが、もう一冊『ルドヴィカがいる』を読んでみて、「あれ?これは違うぞ」と思ったのである。そして、そこで初めて、彼が「ファンタジーノベル大賞」なるものを受賞して世に出てきた作家であるということを知ったのである。
今回の『ドクダミと桜』の巻末では、大矢博子が「平山瑞穂は、実に多彩な作品を生み出す作家である」という書き出しから、作品名とジャンルを並べて「解説」を展開している。
しかし、冒頭に書いた note の連載を読むと、平山は必ずしも多彩なジャンルのものを書こうとして書いたのではないということがはっきり分かる。彼は明らかに純文学志向だったのだ。
にもかかわらず、「世に出る」ために期せずしていろんなものを書き散らかしているうちに、「これで良かったのか」という思いに苛まれて note にこの連載を始めたという印象がある。
だから、僕はこの『ドクダミと桜』を読み進む中で、これは彼が本当に書きたかったものなのだろうかという思いがずっと離れなかった。
その答えは分からない。ただ、平山が達者な書き手であるのはやはり疑う余地もなく、だから、この小説も面白いし、良い話になっているとも思う。
タイトルの「ドクダミと桜」は2人の主人公を模したものだ。ドクダミは徳永多実を略してもじったもの。貧しく、素行が悪い生徒として、中学時代に意地の悪い男子生徒につけられたあだ名、と言うよりむしろ蔑称である。
桜はそのドクダミの中学に転校してきた、お金持ちでお勉強のできる生徒・三津谷咲良。
2人はおよそ暮らす世界が違っていたが、ともに絵が好きだったりするところから何となく気が合い、親しい友達になる。しかし、遊び場所はいつも咲良の家で、コンプレックスのある多実が咲良を自分の家に呼ぶことは決してなかった。
そのうちに2人の環境の違いの大きさに2人とも気づくようになり、多実が評判の悪い先輩とつきあうようになったのを咲良が許せなかったのがきっかけで、やがて没交渉になる。
そんな2人が 19年ぶりに再会した。多美は 16歳でシングル・マザーになり、以後昼間はスーパーのレジ打ち、夜は場末のスナックで働いて娘を養っている。そして、なにやら怪しげな宗教にのめり込んでいる。
咲良は大学の研究者である夫と結婚し、自らも図書館の司書として働いているが、不妊治療の末に流産してしまい、落ち込み、かつ、今後の妊活に悩んでいる。
そもそも大人になってしまうと、「違う世界の人」という思いがお互いに子供の頃よりも強まっているので、今さらあの時代に戻ることはできない。
しかし、多実には咲良がこんな自分に優しくしてくれたという甘い思い出があり、咲良には最後に多実にひどいことを言ってそれっきりになってしまったという後ろめたさがあり、時にギスギスしながらも2人の交流は続いて行く。
──そんな話である。
設定も展開も見事に自然で、わざとらしいところが全くない。そして、男性の作家が女性2人をよくもまあこんなにヴィヴィッドに描いたな、と驚くところがたくさんある。
よく練られた、読み応えのある小説である。しかし、どうしても、これは平山瑞穂が本当に書きたかった小説なのかな、と気になる部分はある。
上にも書いたように、僕が一番好きなのは有村ちさとである。しかし、それとて平山瑞穂が本当に書きたかった小説なのかどうかも分からない。
そもそも何を書いてもちゃんと書けてしまうところが本人にとって一番の憾みなのかもしれない。
note の連載でこの小説が扱われるときにはどんな書きっぷりになるんだろう。
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