映画『冬薔薇』
【6月11日 記】 映画『冬薔薇(ふゆそうび)』を観てきた。
阪本順治監督の映画は昔はよく観ていたのだが、近年ではなんとなく自分と感性が違ってきたような気がして観ていなかった。2011年の『大鹿村騒動記』以来である。
伊藤健太郎は、彼の犯した罪があまりに不甲斐ないものだったので、もう再起不能かと思っていたのだが、捨てる神あればちゃんと拾う神がいたようだ。僕自身は、良い芝居をしていて映画が面白いのであれば、たとえ私生活では連続殺人犯であろうと観るというタイプなので、抵抗感はない。
今回は依頼を受けた阪本順治が伊藤健太郎のために書き下ろしたオリジナル・ストーリーなのだそうだ。
殺伐とした映画である。心が荒むというのはこういうことを言うのだと思う。
一組の親子が出て来る。父親も息子もともにどうしようもなくダメな奴である。しかし、どういう風にダメかというと、2人のダメさ具合は随分違う上に、そのダメさ同士の相性が悪すぎる。
父親の渡口義一(とぐちよしかず、小林薫)はガット船を所有して海運業を営んでいる。冒頭はトラックがガット船に黒い土砂を落とすシーンだ。
このガット船というのが何をする船なのか、最後まで僕には今イチ分からなかったのだが、パンフレットを読むと、埋め立て用の土砂を埋立地まで輸送する船なのだそうだ。
その義一は息子に嫌われるのが怖くて、思ったことが言えない。しかも、それを息子の友だち(佐久本宝)にまで見透かされるぐらいおどおどしている。毎度毎度のそんな夫の態度に妻の道子(余貴美子)はほとほと愛想が尽きている。
息子の淳(伊藤健太郎)は 25歳にもなって定職についたことがない。一応デザインの学校に籍はあるが、学校には行かず、親からもらった学費は遊びに使ってしまっている。
何ごとにも受け身で、他人に頼ることしかできない男だ。ただただ周りに流さて生きているような男だから、いつの間にか半グレの仲間に引き込まれて悪事に加担している。ある日別のグループとの喧嘩で、あわや右足切断かという大怪我を負う。が、考えるのはその怪我で同情を引こうということぐらいだ。
彼が父親の仕事を継がなかったのは、その仕事が嫌だからではなく、父親に継げと言われなかったからだ。一事が万事、そんな感じで父子はすれ違って行く。
最後のカットもそうだが、この映画ではアップの映像が非常に印象的だ。撮影監督は笠松則通。阪本監督の長年の盟友だが、監督・阪本のキャリアよりカメラマン・笠松のキャリアのほうが長いのだそうだ。
僕はふと、このカメラマン、こんなにアップを撮る人だっけ?と思ったのだが、パンフレットの阪本・笠松の対談を読んでいたら、阪本監督が「昔はどアップを撮ってくれと頼んでもバストショットしか撮らなかったのに他の監督たちと組んでいる間に変わったのか?」みたいなことを言っていて、笠松は「そうだったかな(笑)」ととぼけている。
全体的にどこがどうだと言いにくいのだが、この笠松の映像が非常に抑制が効いた感じで染みてくるのである。雪の日に淳と半グレのリーダー・美崎(永山絢斗)が再会するシーンでの真上からのカメラなど非常に印象深かった。
そして、この永山をはじめ、出ている役者がみんな良い。半グレの No.2・玄の毎熊克哉、淳の従兄弟の坂東龍汰、その父親の真木蔵人、美崎の腹違いの妹・河合優実、ガット船の乗組員の石橋蓮司と伊武雅刀…。
伊藤健太郎、小林薫、余貴美子を含めて、みんながみんな驚異的に良い演技をしている。そして、一つひとつの台詞が却々厳しい。
とりわけ永山絢斗は下に対しては傍若無人なのに、自分の上にいるヤクザに対してはヘコヘコしている嫌な感じがよく出ていた。
淳が玄に「お前は自分のことばっかりベラベラ喋って他人のことなんか全く考えていない」と怒られるのに対して、美崎はヤクザに「いちいちおべっかみたいな LINE を大量に送ってきてウザい」と怒られるこの対比が面白かった。
さて、ここには書いていないいろいろな事件が起きるのだが、最後まで圧倒的に救いがない。でも、監督が観客に救いを示さないからこそ、観客はいつまでも深く考えることになるのである。
映画評論家の上野昂志がいみじくも書いている:
ここに答えはない。阪本順治は、気安く言われる再生の物語などに断固として背を向け、観ているわたしたちも日々直面しているような、あるがままの厳しい現実に、彼らの生を委ねる。
厳しい映画だった。果たして、その厳しい冬の寒さの中で、薔薇の花は咲くのだろうか?
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