童謡
【5月28日 記】 童謡・唱歌の歌詞について時々考える。何故こんなに怖い歌詞なんだろう、と。
最初に思ったのは、もう何十年も前。ヒカシューのボーカリスト・巻上公一が、ソロで出したカバー・アルバムで『赤い靴』(野口雨情・詞、本居長世・曲)を歌っているのを聴いたときだ。
そう、この野口雨情のように、明治~大正に作られた童謡・唱歌の類には錚々たる詩人が歌詞を提供しているのだ(ちなみにその時期に書かれた詞は全てパブリック・ドメインになっている)。
この歌の恐ろしいのは3番である。1番と2番で、赤い靴を履いていた女の子が「異人さん」に連れられて横浜港から外国に渡るところが描かれるのだが、3番はこうだ:
今では青い目になっちゃって
異人さんのお国にいるんだろう
これ、ほとんどホラーではないか! そして、4番では:
赤い靴見るたび考える
異人さんに逢うたび考える
と言う。考えるたびに恐ろしくなる。
もっと可愛い『どんぐりころころ』(青木存義:詞、梁田貞・曲)も、いろいろ考えてみると怖いなと最近思い始めた。
木から落ちたどんぐりが、山の斜面を転がってお池にはまってしまう。しかし、どじょうが「こんにちは」と出てきて、「ぼっちゃん一緒に遊びましょ」と言うものだからしばらく一緒に遊んだのであるが、
やっぱりお山が恋しいと
泣いてはどじょうを困らせた
そりゃあ、泣かれてもどじょうは困るだろう。しかし、その後一体どうしたのだろう? それが気になり始めた。
池に落ちたとなっては、もう山には戻れまい。どじょうの力では、どんぐりを陸地まで跳ね上げてやるなんて芸当はできないだろう。だいいち遊んでいる間にどんぐりはかなり水を吸ってしまっているはず。
このあとどんぐりの命運はどうなるんだろう。池の中でふやけて死んでしまうのだろうか?
『靴が鳴る』(清水かつら・詞、弘田龍太郎・曲)という歌もある。
「お手てつないで野道を行けばみんな可愛い小鳥になって」「みんな可愛いうさぎになって」というのが比喩であることは分かるのではあるが、映像が浮かんでくると途端に怖くならないだろうか?
しかも、小鳥になってもうさぎになっても靴は履いたままであり、「唄をうたえば」「はねて踊れば」その靴が鳴るのである。
なんとなくホラーではないか。
最たるものは『めえめえこやぎ』(重森秀夫・詞、本居長世・曲)である。
この歌の SPレコードが、実は我が家にはあった。家で初めて買ったステレオのおまけとしてついていた、コロンビアだかビクターだかの少年少女合唱団によるものだ。
小さかった僕の脳裏にこのうら寂しい、うら悲しい歌は強固にこびりついている。
めえめえ 森のこやぎ 森のこやぎ
こやぎ走れば 小石にあたる
あたりゃ あんよが あ痛い
そこでこやぎは めえと鳴くめえめえ 森のこやぎ 森のこやぎ
こやぎ走れば 株こにあたる
あたりゃ 頭(あんま)が あ痛い
そこでこやぎは めえと鳴く藪こあたれば 腹こがちくり
朽木(とっこ)あたれば 頸(くび)こが折れる
折れりゃこやぎは めえと鳴く
それどうよ! めえと鳴くとか言ってる場合か! 首が折れちゃうんですよ。いや、折れるってのは単に折れ曲がるっていう意味なのかもしれないけれど、いずれにしてもこやぎはめえと鳴く以外何もできない孤立無援の存在なのである。
最後に『雨降りお月さん』(野口雨情・詞、中山晋平・曲)。
これは何だろう? 月を擬人化している。でも、晴れた日の月ではなく、雨降りの日の、そもそも雲に隠れて見えない月である。その月が嫁に行く。雨の中、鈴をつけた馬に揺られて嫁に行く。
手綱の下から馬を見たら、馬は袖で顔を隠している。袖は濡れても干せば乾く。雨降りお月さんはお馬に揺られて濡れていく。
この寂しい嫁入りは何だろう? 果たして、この結婚は幸せな結婚なんだろうか?
これはとても児童には理解できない。理解できないから大人になるまで脳裏に残っている。
でも、こういうのが「情趣」と呼ばれるものの正体なのだ。それを考えると、児童の感性にとっては理解不能でなんとなく怖いものであっても良いのかもしれない──などと最近では考えるようになった。
いずれにしてもやっぱり怖い。大人になっても、大人にとっても、とっても怖いのが童謡・唱歌である。
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