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Thursday, May 12, 2022

『謎ときサリンジャー―「自殺」したのは誰なのか―』竹内康浩・朴舜起(書評)

【5月12日 記】 僕はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を3回読んでいる。最初は野崎孝の訳で、次いで原文で、そして最後に村上春樹の訳で。

初めて読んだ J・D・サリンジャーは短編集『ナイン・ストーリーズ』に収められていた The Laughing Man で、これも翻訳ではなく英語で読んだ。

『ナイン・ストーリーズ』については For Esmé—with Love and Squalor も原文で読み、その後この短編集の9編を野崎訳で読み、まだ読めていないのだが柴田元幸の訳も手に入れている。

それ以外にも、Franny and Zooey は原文、野崎訳、村上訳で3回読んでいるし、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』も『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』も読んでいる。

そんなサリンジャー・フリークにとっては、この本はたまらなく面白い。もう寝っ転がったまま飛び上がりたいぐらい面白い。

『ナイン・ストーリーズ』冒頭の『バナナフィッシュにうってつけの日』では、グラス家の長兄であるシーモアがピストル自殺をするところで終わるのだが、実はシーモアは自殺したのではなかったのではないか、というところからこの本の考察が始まる。

全ての読者がシーモアが自殺したことを疑いもしていないはずだが、しかし、この小説の後半になると、急にシーモアという主語は出てこなくなり、「若い男は」という書き方しかされていないことを、この本の著者はまず指摘する。

とは言っても、この本が展開しているのは、ミステリ小説の謎解きのような分析ではない。

著者はシーモアは死んでいないとは言わない。著者が言うには、死んだのはシーモアであっても、引き金を引いたのはその弟で作家のバディーだったのではないかということなのだ。

しかし、他の作品を読めば、バディーがシーモアの訃報を受けて駆けつけてくる記述があり、シーモアが死んだときに側にバディーがいなかったのも明らかだ。

読み進んで行くと、著者の指摘は、死んだのは「シーモアかバディーのどちらか」であり、それはどちらかとしか言いようのないどちらかだったのだという、何だか分からない主張になってくる。しかし、そのことは『ハプワース』の中で7歳だったシーモアが予言していると言う。

それを読み解いた著者の解釈は「若い男」が死んで、その二重性をバディーが背負い込んだということなのである。

バディーという人格の半分が死者シーモアによって成り立つことになった。

サリンジャー自身もまた、自分が書くものは死者が半分を書いていると感じていたのかもしれない。

ここに至って著者は白隠慧鶴禅師の「隻手音声」という禅の公案を持ち出す。いや、勝手にそんなとんでもなく無関係なものを引っ張り出してきたのではない。『ナイン・ストーリーズ』の献辞と目次の間にエピグラフとしてサリンジャーが書いているのである。

で、シーモアとバディーの関係を、この「片手で鳴らした拍手」で説明して行く。

「バナナフィッシュ」に限れば、私たちが知っているのは両手の音ではなく、片手の音の方なのである。

こういう書きっぷりこそまるで禅の公案みたいなもので、ひとつずつ具体的な証拠が固められるのだろうと思って読み進んできた読者はまさに煙に巻かれてしまう。しかし、そこからが見事なのである。著者はこの主張を補強し、裏付ける証拠を次から次へと見つけ出してくるのだ。

著者はその後、サリンジャーと鈴木大拙を重ね読みすることによって、この何とも掴みがたい論説をどんどん深めて繋げて行く。

それはでも、よく考えてみると、いくらなんでも牽強付会というものだろうという気もする。いくらなんでもサリンジャーがその通りのことを考えて彼の全作品を書いていたとは信じがたい。

しかし、サリンジャーが禅の大家である鈴木大拙の本を読みふけっていたのは紛れもない事実であり、そこから多大な影響を受けていたのも間違いがない。であれば、この著者が書いていることと当時のサリンジャーの頭の中に浮かんでいたことの間には相当な親近性があったはずだ。

さて、あまり書いてしまうとこれから読む人の楽しみがなくなるので、ほどほどにしておこうとは思うのだが、もうひとつだけ。

鈴木大拙は松尾芭蕉を論じている。サリンジャーの小説には芭蕉の句こそ出て来ないが、シーモアは死ぬ前に俳句を書いたりしている。そして、「芭蕉」を英訳すると banana になるのだそうだ。これでバナナフィッシュと芭蕉が繋がった。

で、バナナの対義語となるのがリンゴであり、リンゴもまたサリンジャーの小説に出てくる。『ナイン・ストーリーズ』の最後に収められている『テディー』の中で、主人公である天才少年テディーがリンゴについて語っているのだ。

「エデンの園でアダムが食べたリンゴを知っていますよね、聖書に出てくるやつ」とテディーは尋ねた。「あのリンゴに何が入っていたか分かります? 論理ですよ。(中略)もしもみんなが物事をあるがままに観ようとするならば、リンゴを吐き出しさえすればいいんです。

つまり、禁断のリンゴを食べてしまって論理を身につけてしまったのがアダムとイブで、そのためにサリンジャーのいう「インチキな」大人たちばかりがはびこってしまったのだというのが著者の解釈なのである。

ここでも見事に繋がってくる。そして、まだまだ論点は尽きない。最後に近いところで、著者はこんなことも書いている。

謎と勘違いしてしまった曖昧さこそが答えだったのではないか。

なんとまあ、意味深長な!

しかしまあ、ことほどさように、よくもここまでこねくり回して考えたな(笑)とも言えなくもないのだが、やっぱりどことなく核心を突いている感じもあり、何よりもサリンジャー的なものに突き当たっている気がするのである。

だから、僕のようなサリンジャー・フリークには、もう面白くて面白くて、死にそうに面白くてたまらないのである。

この感じ、サリンジャーを読んだこともない人には伝えようもないのだが(笑)

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