映画『流浪の月』
【5月31日 記】 映画『流浪の月』を観てきた。凪良ゆうの原作小説の映画化。魂を揺さぶられた。ただし、途中までは――。そのことについては最後に書く。でも、李相日監督らしい、非常に濃密で堅牢な作品になっていたのは確か。
冒頭はブランコに乗った少女を後ろから撮った映像。ただし、カメラは彼女の背後に、常に彼女の頭の高さで、頭のすぐ後ろに固定されている。
だから、バラエティ番組でタレントが頭に自撮りカメラがついたヘルメットを被ってジェットコースターに乗ったときみたいに、少女の頭は常に画面の中央に固定されていて、ブランコが揺れるのに合わせて背景が揺れる。――酔うからやめて、と見ていて思った。
すると次は同じ構図で少女の前から撮る。またも顔が固定されて風景が揺れる。白鳥玉季だ。なるほど、この子を持ってきたか、と思った。彼女の出演ドラマはたくさん観てきた。とても上手い子だ。そして、そう言えばなるほど広瀬すずにも少し似ている。
主人公の家内更紗の少女時代を白鳥が、15年後を広瀬が演じている。
話をカメラに戻すと、カメラマンはこういう構図が好きみたいで、他にも同じような画を作っている。
こちらに歩いてくる更紗を固定カメラで撮るのではなく、後退りしながら彼女の顔を中央に、サイズを一定のまま撮って、背景を後ろに流して行く。あるいは走る車を上空からカメラに収めるときにも同じようなカットがあった。
カメラマンは韓国のホン・ギョンピョ。『パラサイト 半地下の家族』などを撮った名匠とのことだ。
結構強烈なフォーカスアウト、フォーカスインも目立った。そして、タイトルの一部になっている月だけではなく、雲やら青空やら鳥やらの風景のインサートも多く、全体に凝りに凝った画作りという感じ。李監督は韓国語ができるのだそうで、だからこそこんな職人のカメラマンと組んで映画を作ることができたんだろう。
ストーリーは割と込み入った設定である。更紗は15年前に佐伯文(松坂桃李)に誘拐された、ということになっている。が、事実は自分が預けられていた親戚の家から逃げ出したかった更紗が自ら望んで彼の家に留まったのだ。
しかし、文は逮捕され「ロリコン」「変態」のレッテルを貼られる。更紗は文を救えなかったという罪の意識に苛まれる一方で、文との心地良かった生活が忘れられない。そんな2人が15年の時を経てばったり再会する。更紗が同僚の佳菜子(趣里)に連れられて入ったカフェのオーナーが文だった。
その時、更紗には結婚間近な恋人・亮がいた。この亮を演じた横浜流星が見事な好演だった。自分は人を愛しているつもりでも、実際彼を動かしているものは支配欲と体裁だけだ。そういう男の醜さ、弱さ、歪んでしまった感じをとてもストレートに表現していた。
亮の嫉妬もあって、文は正体を暴かれ、その余波で亮と更紗の関係も終わる。しかし、亮は更紗を諦められない。いや、自分を棄てようとする更紗が許せないのだ。
一方で、文だけでなく、かつて自分を誘拐した男とつきあっている更紗も異常者の目で見られる。こうやって誰からも理解されずに、でも、ただ2人だけで心を通じ合って生きて行く文と更紗のうらさびしい暮らしが静かに描かれる。
その痛みに胸がえぐられる思いがした。
しかし、最後のあのどんでん返しみたいな、文の「誰にも知られたくない秘密」の暴露のシーンは、あれは要らないと思う。
ああいう展開は観客に「なるほど、そういうことだったのか!」と思わせるのが狙いなんだろう。そのことによってそれまで微妙に理解できなかった文に対して、「そういうことだったら、確かにそんな風になってしまうのかも」と納得する人も出てくると思う。
しかし、そんな風に安易に分かりやすいストーリーに落とし込んではいけないと僕は思う。文は最後までよく分からない存在で良かったと思う。
僕らは分かるものだけを理解し、分かる者だけに寄り添えば良いのではない。よく分からない存在をしっかりと受け入れることこそが、人が生きて行く上でのいちばん大切な仕事なのではないかと、僕は強く思った。
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