『雨のなまえ』窪美澄(書評)
【4月29日 記】 今年の1月、初めて窪美澄を読んだ。『じっと手を見る』だ。
巧い作家だと思った(もっとも、巧くない作家なんて形容矛盾のはずなんだけど)。それで他にも読んでみたくて、いろいろ調べた末にこの本を選んだ。短編集だ。
しかし、これはひどい。いや、文章がひどいのではない。物語がひどい。いや、作家としての物語の作り方が稚拙だという意味ではなく、登場人物がほんとうにひどい状況に追い込まれる。作品によっては、もはや逃れられることのできない無惨な結末に突き落とされる。
それはいくらなんでもひどいでしょ、と思う。ともかく最後の急展開があんまりだ。
どの作品でも雨が降る。主人公が惨めに濡れたり、干してあった洗濯物がびしょ濡れになったり。
最初の話は表題作の『雨のなまえ』。
妊娠中の妻との波風のない暮らし。しかし、主人公の男は仕事で知り合った女に誘惑され、関係を持ってしまい、そのセックスで妻との間では決して感じられなかった快感があり、そのままそれがずるずる続く。
そして、ちょっとまずい展開になる。天罰か? いや、天罰なんかじゃない。人生ってそんなものなんだ。
どの話でもちょっとまずい展開によって、かなりまずい状況が現れる。そう、人生ってそういうものなのだ。
この小説を読んでいる僕だって、あるいは今この書評を読んでいるあなただって、明日すぐにそんなことにはならないにしても、4~5年後にはそんな苦境の中であがいているかもしれないのだ。
しかし、それにしてもあんまりだ。リアルすぎて救いがない。最後の『あたたかい雨の降水過程』だけは、そのタイトル通り少し救いがあるかもしれない。しかし、それは一点の曇りもない青空ではない。明日また激しい雨が降るかもしれないのだ。
小汚いとんかつ屋の床を
歩くたびに靴の裏が床にぺたぺたと張りついた。(『雨のなまえ』)
とか、引き取って同居することになった、認知症が始まっている義母にプレゼントを差し出されて、
自分は世間知らずの若い男で、年上の性悪女に騙されているような、そんな気がした。(『記録的短時間大雨情報』)
とか、大地震の後、避難所の体育館でやっと最愛の妻・美津と再会した主人公が、死んだ飼い猫のりっちゃんを思い出しながら、
美津の細い体を抱きながら、おれはなぜだかりっちゃんの冷たく、かたくなった体を思い出していた。(『雷放電』)
とか、集団登山の途中で他の生徒とはぐれた女生徒を追って追いついたが道に迷い、仕方なく雪を避けて横穴にその女生徒と肌を寄せ合って避難した担任教師が、
洋服ごしに永坂の体温が伝わってきた。それはなぜだか、子供の頃、夜店で売られていたひよこの温かさを思い出させた。(『ゆきひら』)
とか、本筋ではない小さな描写にいちいちはっとしながら読んでしまった。
しかし、これはあんまりである。人生は残酷である。窪美澄はそのことを知りすぎているし、そのことが書けすぎている。
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