『オーバーストーリー』リチャード・パワーズ(書評)
【4月12日 記】 電子書籍の困ったところは本の厚さが分からないところだ。読む前に手に取って確かめることもできないし、読み始めてしばらく経ってからも今で全体のどの辺りまで読み進んだのかが掴みづらい。
この Kindle本の場合はページ数(Kindle の画面数ではなく、恐らく元の紙の本のページ数だろう)が出ていたのだが、読み終わってみると 750ページを超えているではないか(しかし、1ページにどれくらいの文字数が詰まっているのかがやっぱり分からない)。
ただ、この本に圧倒されるのはページ数だけではない。
この小説もまた、いかにもパワーズらしい、頭がクラクラするような膨大な専門知識と深遠な哲学的観点を詰め込んだ、べらぼうな書物なのであった。例によって、読み終わるまでにものすごい時間を費やしてしまった。
木の話である。
最初の話はノルウェー系移民のホーエル家の話。ヨルゲン・ホーエルがポケットに入っていた栗の実をアイオワ州西部の土地に植えたものが育って大きな木になる。ヨルゲンの息子ジョンは毎月21日にその栗の木の写真を撮り始め、撮り続ける。
それはその後も子供たち受け継がれ、ジョンの孫ニコラスの手に渡る。しかし、ある年のクリスマスイブに、ニコラスを除くホーエル家の人々は全員プロパン・ガス中毒で死んでしまう。
2つ目の話は上海からの移民、ミミ・マーの話。ミミの父シューシュインは父親から翡翠に過去・現在・未来を表す3種類の木の彫刻が施された3つの指輪と阿羅漢(アラハット)を描いた巻物を託される。
その財産を持ってシューシュインはアメリカに渡り技師となる。ミミは幼少時代、庭にあった桑の木によく登った。父が死んだ後3つの指輪は3人の娘に、阿羅漢の巻物は長女ミミに遺された。
3つ目の話は「社交性の面で発育遅滞がある」アダム・アピチの話。庭には5種類の木が植わっており、それぞれアピチ家の子どもたち5人を表している。
アダムは標本集めが趣味になる。そして興味の対象は虫に変わり、木にも興味を覚え、やがてそれは心理学に取って代わり、いろいろあったが無事に大学に進んだアダムの専攻となる。
その辺りまで読んで(まだ、12%だ)、ああ、きっとこれらのバラバラの物語がどこかで繋がって来るんだなと思っていたら、次の章はまた別の主人公、次の章はまた別の土地と登場人物と、どんどん変わるばかりで一向に繋がる気配がない。
そうか、これは木をテーマにした連作短編なのだ、と思い始めたら、ちょうど3分の1(33%)に達したところから、この9人の登場人物が次第に繋がり始める。
ちょうどここまでの展開を読んで、僕はスピルバーグの『未知との遭遇』を思い出した。アメリカ合衆国のある地点に現れた UFO に感応した何人かの人間が狂ったように、熱に浮かされたようにそこを目指す。
そんな風にして、この9人の男女も木々の持つ真実に向かって移動し始める。
作中にこんな表現がある:
“木”(ツリー)と“真実”(トゥルース)は語源が同じだ
ただし、この9人が一堂に会するのではない。訳者あとがきには「互いに組み合わさりながら同心円状に展開する寓話」という表現がある。同心円状というのはもちろん木の年輪を意識した表現なのだろう。
ベトナム戦争で撃ち落とされベンガルボダイジュの木に引っかかって一命を取りとめた兵士。感電死したが光の精霊によって甦った女子大生。野放図な樹木の伐採に反対して運動に加わる者たち。樹木同士が会話していることを発見する大学教授。破局に向かう弁護士夫妻。巨大な電脳世界を構築する、足が不自由なゲーム会社社長…。
同じくあとがきには、この9人が「木によって召喚された」と書いてある。まさにそんな感じだ。
それがどういう意味なのか、多分具体的にはイメージできないだろうが、ここで僕の説明を読むよりパワーズの膨大な筆致を四苦八苦しながら読んだほうが良い。
そして、それを読むと、今度はイメージが横溢して、自分の頭の中で整理がつかなくなると思う。それがリチャード・パワーズなのである。
そういう感じを是非とも味わってほしいと、長年のパワーズ・ファンである僕は思う。
そして、最初に出てきた栗の木の写真集は終盤にまた出てきて、締めのイメージとなるだろう。
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