映画『ナイトメア・アリー』
【4月16日 記】 映画『ナイトメア・アリー』を観てきた。
誰かの死体を遺棄して家に火をつけて逃げてきた男スタントン・カーライル(ブラッドリー・クーパー)がカーニバル一座に流れ着く。そして、マネージャーのクレム(ウィレム・デフォー)に邪険にされながらも結局そこで職を得ることになる。
そこでは生きた鶏の首を食いちぎって生き血を吸う獣人(ギーク)ショーが行われている。
僕は、もう何年前だったか(大人になってからだ)、どこだったか(もちろん日本国内だ)で観た見世物小屋の「ヘビ女」を思い出した。何の因果か身をヘビにやつした(こう言っては失礼だが)とても醜い小太りの女性が生きたヘビを食いちぎるショーだった。
何故ヘビになった女が同類のヘビを食いちぎるのか訳が分からなかった。そして、そのシーンを思い出して、映画の出だしから気分が悪くなった。
しかし、最後まで観て思い出したのは、まるっきり毛色の違う映画ではあるが、『太陽がいっぱい』だった。
これは底辺まで落ちぶれた男スタンがのし上がっていく話である。
スタンがカーニバルで初対面から目をかけてくれたジーナ(トニ・コレット)に救われ、ジーナの相棒のピート(デヴィッド・ストラザーン)から読心術を学び、感電ショーで人気を博しているモリー(ルーニー・マーラ)と恋に堕ちて一座を出るところから次のストーリーが始まる。
都会のホテルで読心術のショーが好評な2人の前に現れた心理学博士リリス(ケイト・ブランシェット)との出会いをきっかけに、スタンの野心がねじ曲がった方向に暴走し始める。僕はそこに『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンを観たのである。
しかし、これは何だろう? ひとつ言えるのは随分とクラシックな映画だ。筋運びにとてもクラシックなものを感じる(のは僕だけだろうか? いずれにしても)今までのギレルモ・デル・トロ監督とは少し違う。ファンタジーも SF もない。
時代設定は 1941年。今回も脚本はデル・トロ本人が書いているが、原作の小説があり、1947年にタイロン・パワー主演で一度映画化もされている。つまり、リメイクだ。前作に敬意を抱いているが故のリメイクである。
デル・トロはこの映画をノワール映画にだけはしたくなかったと言っている。形而上学的要素を取り戻そうとしたとも言っている。そして、この映画を「カラーで撮るモノクロ映画」と称している。
いずれもよく分かる。セットと言い衣装と言いカメラワークと言い、ファンタジーや Sci-Fi がなくても、それは完璧なデル・トロ・ワールドである。完璧に閉じた世界であり、だからこそ入り口を見つけるのは難しいが、一旦入ってしまったら今度は抜けられなくなる。
これこそ名匠の描写である。皮肉に満ちたラスト・シーンでのスタンの台詞と表情が圧倒的である。
この話は僕らが意味を読み取るよりも前に、僕らの心の暗い部分に齧りついて、僕らを侵食し始めている。
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