映画『さがす』
【2月4日 記】 映画『さがす』を観てきた。片山慎三監督。
知らない監督だなと思ってスルーしていたのだが、映画の評判が良いのでもう一度調べてみたら、『岬の兄妹』の監督だということに気づいて慌てて見に行った次第。
『岬の兄妹』はえげつない映画だった。極度の貧困から知的障碍の妹に売春をさせる(そして自分はその女衒となる)物語だった。胸塞ぐストーリーなのに、時々おかしく、そして何よりも構図が素晴らしく、画に力のある監督だった。
あの映画評の終わりに「次回作も断然観たい」と書いておきながら、危うく見逃すところであった。
そして、この映画もまたかなりえげつない映画である。えっと、しかし、設定やストーリーをどこまで書いて良いのかものすごく迷ってしまう。
冒頭はハンマーを振り回す練習(?)をしている原田智(佐藤二朗)。これが何を意味するのかは最後まで見ないと分からない。
そして、次のシーンは道路の向こう側を必死で走る楓(伊東蒼)をこちら側の歩道から車道越しに撮る引いた画。やがてそれは智の娘であり、万引で捕まった父親を引き取りに来たことが分かる。20円足りなくておにぎりを盗んだらしい。のっけからなんと情けない設定か。
場所は大阪市西成区だ。原田家に母はおらず2人暮らし。智は楓に「今日、連続猟奇殺人容疑で指名手配中の犯人・山内を見た」と言うが、楓は「人違いや」と取り合わない。
翌日、楓が起きたら父はいない。連絡も取れず3日経っても帰ってこない。先生や警察にも相談したが埒が明かない。同級生で楓に片思いしている豊(石井正太朗)と2人で智が働いている工事現場を突き止めて訪ねてみたが、そこにいたのは父とは似ても似つかない同姓同名の原田智(清水尋也)だった。
ところが、やがてそれは同姓同名の原田智などではなく、父の名前を騙った連続殺人犯・山内だったことが分かる。ここからストーリーはとんでもない方向にどんどん飛んで行く。──この辺でやめておこう。
話は3ヶ月前に飛ぶのだが、その冒頭に載っている「3ヶ月前」という黄色い文字のスーパーのフォントがやたらでかくて、画面からはみ出している。次の「13ヶ月前」も同様。こういう演出が絶妙だ。
そう、この映画も前作に引き続いて画作りがものすごく面白い。
人が動きカメラがそれを追うのではなく、人が動き、カメラがそれとは別の動きをして映す角度を変えて行くような、見事にデザインされたカメラワークがふんだんにある。
曲がり角の道端でへたりこんでいる父娘の2ショットから、いきなりそれを道の随分手前から撮ったものすごく引いた画に転じたり、電車の中の人物を狙った構図だと思っていたら、電車が駅に着いてドアが開いて左にパンしたところに電車を待ち伏せしていた楓がいて、「あ、そっちか」と驚かされたり。
風で飛ばされそうになっている道端の吸い殻とか、床に落ちて跳ねているピンポン玉がいきなりぐしゃっと踏み潰されたりするとか。
最後の父娘の卓球のシーンも、あんなにミスなく打ち続けられるわけがないから、これは合成した音に合せて CG で描いたピンポン玉かとすぐに気づくのだが、最後にはそれを省略してみせる辺りがなんとも人を喰っている。
で、ネタバレを避けるために書かないけれど、これがもうなんとも言えないえげつないと言うか、哀しいと言うか、えも言われん設定と展開なのである。犯罪であり、人の倫を踏み外した行為なのだが、それが良いとか悪いとかいう次元ではないのである。
父を探しに一緒に島に行ってくれと楓に頼まれた豊が臆面もなく、「じゃあ、おっぱい見せてくれたら」と言う辺りもなんとも曰く言い難い。
「だって、そういう曰く言い難いものを描くものこそが映画なんじゃないですか」と監督に言われているような気がする。
エンドロールを見ていたら、「共同脚本」に小寺和久と高田亮という、このところいろんな映画やテレビドラマで良い脚本を書いている2人の名前があるのを見つけた。2人がどういう形で脚本作りに参加したのかは不明だが、確かによく書けた脚本だ。
人間を良い人と悪い人に分けたりしていないし、人間を理屈で割り切らない運びになっているところが如何にもリアルである。それは突き放した筆致ではない。かと言って養護する描写でもない。どうしようもなく人間なのである。
いやあ、えげつない映画を観てしまった。再び書いておこう、次回作も断然観たい、と。
Comments