『残像に口紅を』筒井康隆(書評)
【12月4日 記】 今年になってから誰かが TikTok でこの小説を取り上げたら、それが評判になって、1989年に出た小説が今ごろベストセラーになったと言う。
僕はこの小説のことは知っていた(ということは、発表時には多少評判になったんだろうか?)が、読んではいなかった。それで、まあ、良い機会だからということで Kindle版を落としてみた。
皆さんすでにご存知かと思うが、日本語から順番にひとつずつ音が消えていったらどうなるかという小説。ひとつずつと書いたが、いっぺんに2音が消えることが多い。
さて、これはエッセイではなく小説であって、佐治勝夫という小説家が実際にそういう環境で書いている小説を僕らは読まされるわけだ。最初の章題は「世界から『あ』を引けば」。
「あ」と言えなくなると、例えば「愛」とは言えなくなる。では愛も消えてしまうのかと言うとそうではない。愛は他の言葉で言い換えられるからだ。でも「アルパカ」は多分言い換えようがないだろうから、世界からそういう動物が消えてしまうことになる。
「あ」などが消えたら大変だろうとついつい僕らは思ってしまうのだが、しかし、章題を読み飛ばしていたら(実際僕がそうだった)最初の章で一切「あ」の付く言葉が使われていないなんて全く気がつかない。何の差し障りもないスムーズな文章なのである。
で、佐治は友人でありフランス文学の教授である津田得治といろいろ構想を話しながら、この小説をまとめ上げて行く。そういうわけで「つ」「だ」「と」「く」「じ」の5音はなかなか消える順番が回ってこない。これらが消えた時は津田得治が小説内から消える時だから。
大したもんだと思うのは、5音や10音が消えたぐらいでは作家はびくともしないということだ。この場合の「作家」はもちろん小説を書いている佐治勝夫ではなく、佐治勝夫を書いている筒井康隆のことだが。
ところが、第一部も終盤になってくるとさすがに窮屈になってくる。筋もまともに進められなくなってきた感がある(わざとそういう風に仕向けているのではあるがw)。そこで佐治は津田の勧めで、学生時代に佐治を慕っていた若い女性と自分の情事を唐突に描き始める。
これがまた笑うぐらい、純然たるポルノ小説なのだ。そんなこと聞くとなんか読む気がなくなるという人もいるかもしれないが、こりゃ本当に面白い。だって、言葉の不自由さを逆手に取って筒井康隆が遊んでいるのである。そう、嬉々として。
彼は今までこんな小説を発表したことはないのではないだろうか。
さらに音が減ってくると、今度は佐治の喋り方が爺さん口調になったりもする。これも遊んでいるのだ。その後突然命を狙われてタクシーに崖っぷちに追い込まれたりもする。これも遊んでいるのである。
こういうのを「実験的小説」などと言ってはいけない。実験というのは今後実用可能かどうかを試すものだ。筒井康隆はこんなものを二度と書く気があるとは思えない。ただ、一回限りの遊びをしているのだ。
しかし、かなり終盤になっても、きっちり文章は書かれており、ふむ、さすがに作家というのは大した人たちだ、などと感心してしまう。
ただ、微妙に体言止めが増えてきたりする。それもそのはずで、名詞はいろいろと言い換えが効くが、使えない音が多くなってきて使える用言がどんどんなくなってきているからだ。
さらに、なんだか韻文めいてくる。それもそのはずで、使える音が少なくなっているので、自然と限られた音韻に揃ってくるのだ。ところどころは回文のようにも見える。これも同じ音が文の中で複数回使われているからである。
ストーリーを追わず、そういう変遷をたどって読むと、これはかなり面白い。そして、その進行に伴って佐治の精神がだんだん支障を来してくる感じがこれまた面白い。
最後の1音になるまできっちり全部書きあげたところが立派である。それでこそ作家、と言うのではない。それでこそ正しい「遊び」なのである。
読んでも何の足しにもならない書物だ。あー面白かった。
Comments